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東京地方裁判所 昭和60年(刑わ)2295号 判決 1988年4月21日

主文

被告人を懲役二〇年に処する。

未決勾留日数中六〇〇日を右刑に算入する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、昭和四一年に千葉大学工学部写真工学科を卒業後、○○電気株式会社に就職したが、約二年で同社を退社し、デザイン関係、生花販売等の職を経た後、昭和五一年に株式会社××屋に入社し営業員として不動産関係の仕事に従事するようになり、昭和五三年に独立し、自ら△商興株式会社を設立し、同社の代表取締役として不動産の売買、仲介等の事業を営んでいたものであるが、昭和五四年ころ、知人の紹介でA(以下、単に「A」ということがある。)と知り合った。同人は、戦後、パン屋の経営を手始めに、割烹、クラブ、喫茶店など次々と事業を拡大し、昭和五五年当時、東京都大田区<住所省略>(登記簿上の表示同所<省略>)に邸宅を所有して居住し、渋谷区<住所省略>(登記簿上の表示同町<省略>)の借地上に地下一階付二階建店舗(以下、「宇田川町ビル」という。)を所有し、また同都中央区<住所省略>所在の東京ビルデング三階部分の店舗を賃借し、株式会社A企画、有限会社キャピタル×○、有限会社△×企業を設立し、その各代表取締役として、これらの店舗で飲食店の経営や貸しビル業を営んでいたほか、多額の預金等を有する資産家であったが、当時既に妻と離婚し、家族は離散していて独り身の生活をし、私生活上も仕事の上でも特別親しい知人はなく、気が向くままに旅に出かけるなど自由気ままな生活を送っていたものである。被告人は、Aから離婚の費用捻出のため自宅の庭の一部の売却方を依頼されたのを契機に、同人としばしば行き来するようになり、やがては、同人の事業をめぐる個人的な相談を持ち掛けられたり、昭和五五年ころには、同人の宅地の一部売却、宇田川町ビルの賃貸等の契約締結の場などに同席し、これらの契約締結に尽力し、元来個性の強い性格の持ち主であり、特に親しい知人もない同人と私生活の面でも親しく交際するようになり、ほとんど無報酬で、同人を車で送り迎えし、あるいはその自宅の芝生の手入れをするなど、いわば、同人の秘書ないしは使い走り的な働きすらするようになり、同年五月ころからは、前記東京ビル三階の一区画でAが開店したスナック「○△」の経営を同人から任されるに至り、これからは同人の信頼を得て、同人の経営する有限会社キャピタル×○の代表取締役になり、同社を足掛りにして同人の資産の運営に参画しようと考えていた。

一方、被告人の経営する△商興株式会社は、設立当初から苦しい経営状態にあり、昭和五五年に入ってからは、めぼしい取引は数件ほどあったにすぎず、経費等の支出で利益がほとんど残らない状態にあった。こうした中、被告人は、同年七月ころ、××屋に対し、既に期限の経過した一〇〇〇万円の不動産購入残代金債務を負っていたが、同月中旬までなんとか弁済の猶予を取り付け、同月一五日に回収する予定であった一〇〇〇万円の貸金債権をもって右弁済に充てようとしていたところ、借主から支払期日の延期を申し込まれ、××屋への支払の目算が狂うこととなり、Aに相談を持ちかけたところ、同人が一〇〇〇万円を被告人に貸し付けることを約束してくれたので、××屋への弁済資金は右一〇〇〇万円をこれに充てることとし、この貸付けを見越して、被告人は、同月一八日、××屋に対し、前記残金の支払として額面一〇〇〇万円の小切手を振り出した。ところが、Aが右約束を履行しなかったことから、被告人は右小切手を決済することができなくなり、同月二一日、不渡りを出すのを余儀なくされた。そして、同月二四日に二度目の不渡りを出すに至った。

被告人は、二度にわたり不渡りを出したうえ、××屋は、被告人の元の勤務先であり、同社関連の仕事が被告人の事業に大きな地位を占めていたことから、同社に対して不渡りを出した以上、もはや不動産関係の仕事はできないと考えて大層落胆するとともに、このような状況に至った元凶は、今まで自分が使い走りのようなことまでして尽してきたAに他ならないと考え、しかも、被告人に対し貸付けを約束しながら、小切手の決済時に被告人の前から姿を隠し、これを履行しなかった同人の態度に対し強い憤まんの情を抱くようになった。

このような中で、同月二四日、Aが福岡市に滞在していることを知り、同日、被告人も同地に向けて出発した。

(罪となるべき事実)

被告人は、

第一  昭和五五年七月二四日又は二五日、福岡県福岡市博多区中洲五丁目三番四号所在の博多城山ホテル四一四号室において、A(当時五六歳)に対し、殺意をもって、鈍器で同人の後頭部を数回強打し、よって、そのころ、同人を頭蓋骨骨折を伴う打撲傷に基づく頭蓋内損傷により死亡させて殺害した

第二  株式会社A企画代表取締役Aが昭和五五年五月一六日ころ有限会社□□に対し一五〇〇万円を貸し付けた際、これに立ち会ったことから、同年七月末ころ、同会社取締役Bから同人が右借受金債務の担保として右A企画に提供していた平塚市所在の右B所有にかかる宅地二筆及び居宅二棟のうち保存登記が既になされていた一棟についての各登記済権利証や印鑑証明書、白紙委任状等と引き換えに早急に右一五〇〇万円をAに返済したいとの相談を受けたのを奇貨として、右返済金の代理受領名下に右Bから金員を騙取しようと企て、そのころ、東京都渋谷区<住所省略>所在の△商興株式会社事務所から神奈川県川崎市多摩区<住所省略>中野島ダイヤビル二〇一号所在の有限会社□□の事務所に電話をかけ、右Bに対し、真実は右A企画の代表取締役であるAが既に死亡しており、被告人が右返済金を受領した後はこれを自己の用途に充てる意図であるのにその情を秘し、かつ、右Bから右一五〇〇万円を代理受領する権限がないのに、あたかもAからその権限を与えられているかのように装い、「Aさんが権利証を貸金庫に入れたまま台湾へ旅行に行ってしまって、二、三週間帰ってこないので権利証が返せない。保証書により移転登記をしてくれないか。」などと虚言を申し向け、右Bをして、右Aの留守中は被告人が返済金を代理受領する権限を与えられているものと誤信させ、よって、同年八月九日ころ、厚木市中町一丁目七番九号平塚信用金庫厚木支店において、右Bから、天引分の利息を除いた右一五〇〇万円の貸付金の弁済として額面六五〇万円の小切手二通の交付を受けてこれを騙取した。

第三  Aが昭和五四年一一月に自宅の庭の一部を売却し、これについての税金を納めていなかったことから、同人の自宅の土地、建物を税務署に差し押さえられてしまうおそれがあるので、右土地、建物につき、被告人名義で所有権移転請求権仮登記及び賃借権設定請求権仮登記を経由し、右土地、建物の所有権、占有権を確保しておいたうえ、時期を見て自己のために処分しようと企て、同五五年八月二〇日ころ、前記第二記載の△商興株式会社事務所において、行使の目的をもって、ほしいままに、委任状用紙の委任者欄に「大田区<住所省略>A」と記載し、その名下に「A」と刻した印鑑を冒捺したうえ、同年九月二〇日ころ、同都港区<住所省略>DIKマンション新橋内司法書士C事務所において、情を知らない右Cをして、右委任状の委任事項欄等に、A所有名義の同都大田区<住所省略>宅地318.00平方メートル及び同番地所在家屋番号四〇番三の一鉄筋コンクリート・コンクリートブロック造陸屋根・スレート葺三階建居宅(延面積221.41平方メートル)につき、同五四年一二月二〇日付代物弁済を原因とし被告人を権利者とする所有権移転請求権仮登記及び同日付賃借権設定予約を原因とし被告人を権利者とする賃借権設定請求権仮登記の各申請手続を右Cに委任する旨の記載をさせ、もって、A作成名義の登記申請委任状一通を偽造し、同五五年九月二五日、同都大田区大森北四丁目一六番八号所在の東京法務局大森出張所において、右Cをして、同出張所登記官に対し、前記所有権移転請求権仮登記及び賃借権設定請求権仮登記の各申請手続をとらせ、その際、その必要書類として右偽造にかかる登記申請委任状一通を真正に成立したもののように装い提出させて行使し、よって、同日、情を知らない同登記官をして、同出張所備付けの不動産登記簿の原本に、その旨の不実の記載をさせ、即時、これを同所に備え付けさせて行使した。

第四  Aを殺害した後、同人の住友銀行田園調布支店における同人及び同人の長男D名義の定期預金通帳及びその銀行届出印、同支店における株式会社A企画代表取締役A名義の当座預金及び同銀行銀座支店における有限会社△×企業代表取締役A名義の当座預金の各銀行届出印、小切手用紙等を所持し、しかも、右両当座預金口座が被告人の自由になることを奇貨として、右両名名義の定期預金の元利金を払い戻したうえ右株式会社A企画及び有限会社△×企業の当座預金口座に振替入金させてこれを騙取しようと企て

一  昭和五五年一〇月一五日、東京都大田区田園調布二丁目五一番一一号住友銀行田園調布支店において、定期預金元利金請求書用紙一枚を用い、行使の目的をもって、ほしいままに、その金額欄に「\5,000,000」、おなまえ欄に「大田区<住所省略>A」と冒書し、その名下に、かねてから入手していた「A」と刻した銀行届出印を冒捺し、右A作成名義の金額五〇〇万円の定期預金元利金請求書一通を偽造し、同支店係員Eに対し、これを真正に成立したもののように装い、かねてから入手していたA名義の金額五〇〇万円の定期預金通帳とともに、右定期預金の元本及び利息を同支店の株式会社A企画名義の当座預金口座へ振替入金するよう依頼して、提出、行使し、同係員らをして、被告人が右定期預金の支払を請求する正当な権限を有するものと誤信させ、よって、即時同所において、右定期預金の元本及び利息合計五〇二万九八〇七円を前記住友銀行田園調布支店の前記株式会社A企画の当座預金口座に振替入金させて同金額相当の財産上不法の利益を得た

二  同年一二月六日、前記住友銀行田園調布支店において、定期預金元利金請求書用紙一枚を用い、行使の目的をもって、ほしいままに、その金額欄に「\10,000,000」、おなまえ欄に「A」と冒書し、その名下に前記の「A」と刻した銀行届出印を冒捺し、A作成名義の金額一〇〇〇万円の定期預金元利金請求書一通を偽造し、同支店係員Fに対し、これを真正に成立したもののように装い、かねてから入手していたA名義の金額一〇〇〇万円の定期預金通帳とともに、右定期預金の元本及び利息のうち八〇〇万円を同支店の株式会社A企画名義の当座預金口座に、残額二二三万五五二五円を、同銀行銀座支店の有限会社△×企業の当座預金口座にそれぞれ振替入金するよう依頼して、提出、行使し、同係員らをして、前同様誤信させ、よって、即時同所において、右定期預金の元本及び利息のうち八〇〇万円を前記住友銀行田園調布支店の株式会社A企画名義の当座預金口座に、残額二二三万五五二五円を同銀行銀座支店の有限会社△×企画名義の当座預金口座にそれぞれ振替入金させて右合計金額相当の財産上不法の利益を得た

三  昭和五六年七月八日、前記住友銀行田園調布支店において、定期預金元利金請求書用紙二枚を用い、行使の目的をもって、ほしいままに、その一枚の金額欄に「\3,000,000」、おなまえ欄に「A」と冒書し、その名下にかねてから入手していた「A」と刻した銀行届出印を冒捺し、他の一枚の金額欄に「\3,000,000」、おなまえ欄に「D」と冒書し、その名下にかねてから入手していた「A」と刻した銀行届出印を冒捺し、もって、A及びD各作成名義の各金額三〇〇万円の定期預金元利金請求書各一通を偽造し、同支店係員Gに対し、右偽造にかかる定期預金元利金請求書二通を真正に成立したもののように装い、かねてから入手していたA名義及びD名義の各金額三〇〇万円の定期預金通帳とともに、右二口の定期預金の元本及び利息を同支店の株式会社A企画の当座預金口座に振替入金するよう依頼して、提出、行使し、同係員らをして、前同様誤信させ、よって、即時同所において、右定期預金の元本及び利息合計六四六万五〇〇〇円を同支店の株式会社A企画の当座預金口座に振替入金させて同金額相当の財産上不法の利益を得た

第五  Aが生前北陸銀行渋谷支店に対して有していた定期預金債権一二四〇万円を、同人に対する架空の債権に基づいて差し押さえようと企て、昭和五五年一二月七日ころ、東京都渋谷区<住所省略>の被告人の事務所において、行使の目的をもって、ほしいままに、かねてAがその委任者欄に、「住所大田区<住所省略>」「氏名A」と記載していた委任状用紙を写真複写したうえ、その名下に、かねてから入手していた「A」と刻した印鑑を冒捺し、その委任事項欄に、「債権者Hと債務者Aとの間の金額六〇〇万円の金銭消費貸借契約につき強制執行認諾約款付きの公正証書を作成する権限を委任する」旨の内容虚偽の事項を記載し、更に同月一九日、同都武蔵野市吉祥寺本町一丁目一〇番七号武蔵野公証役場において、情を知らないHらをして、右委任状の受任者欄に「I」と記入せしめるなどして右公正証書の作成に関する権限をIに委任する旨のA作成名義の委任状一通を偽造し、更に、右のような内容虚偽の公正証書を作成、行使することにつき右H及びIと共謀のうえ、即時同所において、東京法務局所属公証人斉藤寿に対し、右偽造にかかる委任状一通を真正に成立したもののように装い、右AとHとの間の前記金銭消費貸借契約公正証書の作成を依頼し、Aの印鑑証明書等とともに提出して行使し、情を知らない同公証人をしてその旨誤信させ、公正証書の原本である金銭消費貸借契約公正証書にその旨の不実の記載をさせ、即時、これを同所に備え付けさせて行使した

第六  Aが生前所有していた前記第三記載の宅地及び建物の売買を仮装してその売買代金名下に金員を騙取しようと企て、被告人が右宅地及び建物につき何ら権限も有しないのに、あたかもこれを処分しうる正当な権限を有するものであるかのように装い、昭和五六年一月中旬ころ、同都渋谷区<住所省略>宇田川町ビル内の飲食店「□×屋」等において、Jに対し、「あの土地、建物を一億四〇〇〇万円で売ります。しかも、あなたの初台の家を四〇〇〇万円に評価して下取りし、更に残金のうち六五〇〇万円は一〇年間無利子で私が融資したことにしておき、あなたはその間に返済してくれればよい。」などと申し向け、更に、同年二月中旬ころ、右飲食店「□×屋」等において、右Jに対し、右宅地及び建物の登記簿謄本の前記仮登記部分などを示しつつ、「Aさんは税金を滞納して国税庁から追われているし、方々で借金をして逃げ回っている。僕も債権者の一人で、利子分を合わせて一億円くらいはAさんに貸しています。Aさんの借金の未払分を僕が払っている。この家と土地はAさんのものですが、僕は借金のかたにこの家と土地を担保にとっているから自由に処分できる。」などと虚構の事実を申し向け、右J及びその妻Kをして、被告人が右宅地及び建物を処分しうる正当な権限を有するものと誤信させ、よって、その売買代金名下に、右J及びKの両名から、別紙一覧表記載のとおり、同月一九日ころから同五九年一二月一八日ころまでの間、前後八回にわたり、同都渋谷区<住所省略>宇田川町ビル内の被告人の事務所他四箇所において、現金合計二〇〇〇万円及び小切手三通(額面合計二一〇〇万円)の交付を受けるとともに、その間の同五六年七月二二日、右代金のうち四〇〇〇万円の支払に代えて右J及びK所有にかかる同都渋谷区<住所省略>の宅地(合計64.27平方メートル)及び同番地一二所在の木造瓦葺二階建居宅(床面積合計68.44平方メートル)一棟につき被告人あてに所有権移転登記をさせ、もって、これらを騙取した

第七  昭和五六年二月下旬ころ、前記第六記載の被告人の事務所において、行使の目的をもって、ほしいままに、委任状用紙の委任者欄に「大田区<住所省略>A」と記載し、その名下に「A」と刻した印鑑を冒捺したうえ、同年三月一二日ころ、前記司法書士C事務所において、情を知らない右Cらをして、右委任状の委任事項欄に、A所有名義の前記第三記載の宅地及び建物につき、同日付売買を原因として、その所有権をAからJ及びKに移転するための所有権移転登記申請手続を右Cに委任する旨の記載をさせ、もって、A作成名義の登記申請委任状一通を偽造し、同日ころ、前記東京法務局大森出張所において、右Cをして、同出張所登記官に対し、右土地及び建物についてその旨の所有権移転登記申請手続をとらせ、その際、その必要書類として右偽造にかかる登記申請委任状一通を真正に成立したもののように装い提出させて行使し、よって、同月二三日、情を知らない同登記官をして、同出張所備付けの右土地及び建物の不動産登記簿の原本にその旨の不実の記載をさせ、即時、これを同所に備え付けさせて行使した

第八  Lと共謀のうえ、

一  昭和五八年二月一八日ころ、川崎市多摩区登戸一七八五番地川崎市多摩区役所において、行使の目的をもって、ほしいままに、住民異動届用紙一枚を用い、その異動年月日、住所欄等に、Aが、同月一日、同市同区宿河原一〇〇三番地一サニーパレス多摩一〇七に住所を設定した旨虚偽の事項を記載し、届出人欄に「A」と冒書し、その名下に「A」と刻した印鑑を冒捺し、もって、右A作成名義の住民異動届一通を偽造したうえ、同日、同区役所係員に対し、右偽造にかかる住民異動届一通を真正に成立したもののように装い提出して行使し、よって、情を知らない同区役所係員をして、内容虚偽の右住民異動届に基づき、同日、同区役所欄付けの住民基本台帳の原本にその旨の不実の記載をさせ、即時、これを同所に備え付けさせて行使した

二  前同日、前記区役所において、行使の目的をもって、ほしいままに、印鑑登録申請書用紙一枚を用い、その登録印鑑欄に、前記の「A」と刻した印鑑を冒捺し、登録申請者欄に、住所を「川崎市多摩区宿河原一〇〇三―一」、氏名を「A」、生年月日を「大正一二年八月一二日」とそれぞれ記載し、申請人欄に「A」と冒書し、その名下に右印鑑を冒捺し、もって、右A作成名義の印鑑登録申請書一通を偽造し、同日、同区役所において、同区役所係員に対し、右偽造にかかる印鑑登録申請書一通を真正に成立したもののように装い、提出して行使した

第九  昭和五九年三月二二日ころ、東京都世田谷区<住所省略>○○ビル三〇一号室の被告人方居室において、行使の目的をもって、ほしいままに、委任状用紙一枚を用い、その委任者欄に「川崎市多摩区宿河原一〇〇三―一A」と冒書し、その名下に前記の「A」と刻した印鑑を冒捺したうえ、同日ころ、同都豊島区<住所省略>アルテール池袋五〇五号室の司法書士M方事務所において、情を知らない右Mをして、右委任状の委任事項欄等に、A所有名義の同都渋谷区<住所省略>所在木造亜鉛メッキ鋼板葺コンクリート造地下一階付二階建店舗(延面積163.52平方メートル)につき同五五年七月二〇日付の譲渡担保を原因としてその所有権を同人から被告人に移転するための所有権移転登記申請手続を右Mに委任する旨の記載をさせ、もって、A作成名義の登記申請委任状一通を偽造し、同五九年三月三〇日、同区宇田川町一番二号の東京法務局渋谷出張所において、右Mをして、同出張所登記官に対し、前記所有権移転登記申請手続をとらせ、その際その必要書類として右偽造にかかる登記申請委任状一通を真正に成立したもののように装い、提出させて行使し、よって、同年四月九日、情を知らない同登記官をして、同出張所備付けの不動産登記簿の原本に、同五五年七月二〇日付の譲渡担保を原因として右建物の所有権が右Aから被告人に移転した旨の不実の記載をさせ、即時、これを同所に備え付けさせて行使した

ものである。

(証拠の標目)<省略>

(事実認定についての説明)

弁護人及び被告人は、判示第一について、被告人がAを殺害した事実はないとしてこれを争い、被告人は、捜査段階において、一時期A殺害の事実を認めたものの、当初からほぼA殺害の犯行を否認し、公判廷においては、終始一貫して自分の犯行ではない旨主張している。そこで、以下において、判示の事実認定に至った理由について説明していくこととする(なお、以下の記述において、年月日を示す場合、「昭和六〇年」についてはその記載を省略することがある。)。

第一  Aが昭和五五年七月下旬ころ筑紫野市又はその周辺において何者かによって殺害された事実についての検討

一  Aが死亡した事実について

1 昭和五五年八月一三日、福岡県筑紫野市内の杉林で身元不明死体が発見された事実

第一九回公判調書中の証人Nの供述部分、Oの司法警察員に対する供述調書及び司法警察員作成の昭和五五年八月一七日付実況見分調書によると次の事実が認められる。

昭和五五年八月一三日午後四時五〇分ころ、福岡県筑紫野市大字柚須原四〇七番地一〇五長谷勝所有の杉林内において、同所を通りかかった行楽中の家族連れの会社員によって、男性の腐乱死体一体が発見された。同所は、三群山山頂から南東に約二キロメートル下がった同山三合目付近に当たる標高三七〇メートルの山中で、県道六五号線(筑紫野、筑穂線)から運輸省航空局福岡航空路管制基地入口に通じる分岐点の北方約四〇〇メートルの地点に位置し、その周囲は当時庭石採石場に隣接する杉林となっていた。右死体は全裸で仰向けの状態にあり、その上部は全体にわたってビニール製シートにより覆われていた。右死体の頭部及び頚部は全般にわたって白骨化しており、胸部は一部肋骨の露出がみられ、左右の上肢と左下腿も骨が露出し、その他の部分も腐敗が著しく、また、下肢は膝部で折れ曲がり、開脚していたが、左右の両足首及び両足の親指はそれぞれ梱包用のビニール紐で結ばれており、死体の下の泥土内において長さ約1.6メートルの同種のビニール紐が発見された。

2 右死体とAとの同一性

関係各証拠によると、右死体には、歯型や歯の治療の状況等の点においてAのそれと顕著な符合が認められるほか、性別、血液型等も両者は一致しており、年齢、体格その他数多くの点で類似がみられ、右死体がAであることは疑う余地がないというべきであるが、弁護人及び被告人はこの点を争うので、以下に右死体とAの同一性について補足説明をする。

(一) 歯の状態

第三回公判調書中の証人伊波侃の供述部分、第四回公判調書中の証人鈴木和男の供述部分、証人河原英雄に対する当裁判所の尋問調書、鈴木和男及び河原英雄各作成の各鑑定書、伊波侃作成の歯科診療録(写し)及びデンタルチャート(昭和六〇年八月二七日付)、歯の写真一三葉並びに押収してあるレントゲン写真一枚(昭和六一年押第一二七号の20)、「お願い」と題するちらし一枚(同号の21)及びQDTクインテッセンス/デンタル・テクノロジー別刷り一冊(同号の22)によれば、右死体の歯型、歯槽骨、歯の治療状況等とAのそれとの間に次のような一致点を認めることができる。

(1) 萌出異常

両者はともに、下顎左側第二小臼歯がやや頬側に転移しているうえ、強く遠心に傾斜し、このためにこの歯牙のみが咬合平面に達せず、低位の状態を示し、また、同歯歯根部はそのほぼ中央部で遠心に「く」の字型に屈曲し、更に、このことに伴ない下顎左側第二小臼歯と第一大臼歯間及び同第一大臼歯と第二大臼歯間にいずれも鼓状空隙が生じているなど、極めて特徴的な形態の一致が認められる。

第四回公判調書中の証人鈴木和男の供述部分及び証人河原英雄に対する当裁判所の尋問調書によると、このことは、指紋の一致に匹敵するほど非常に重要な特徴であることが認められ、この点のみをもってしても右死体とAの同一性が強く推認される。

(2) 治療状況

右死体に施されている治療の痕跡とAの歯の治療状況との間に次のような一致が認められる。

ア 前歯にともに、右側側切歯から上顎左側犬歯にかけてブリッジが装置されていて、このブリッジの裏が金で補綴され、表に白色の素材が用いられている形態が共通している。

イ Aは昭和五三年一二月四日ころ歯の治療を受けているが、この時、上顎左側第一大臼歯、第二大臼歯の抜歯あとにアイバー・パーシャル・デンチャーという術式を用いて義歯が入れられ、この治療に伴い、同第一、第二小臼歯にくぼみがつけられている。

一方、右死体の上顎左側第一、第二大臼歯は欠落し、入歯自体も存在していないが、右治療に対応する痕跡として、上顎左側第一、第二小臼歯にくぼみ(ディンプル)がある。なお、このくぼみの点については、前記鈴木鑑定は充填物の脱落した跡ととらえているが、その趣旨は要するに、当該部位に窩洞形成があるということであり、それ自体としてはアイバー・パーシャル・デンチャーのくぼみであることと何ら矛盾するものではないところ、歯科医である河原英雄は、この窩洞の形成原因について、日々の歯科治療の経験をふまえたうえで、歯の壁面の状況等を具体的に検討した結果、これが充填物の脱落したあとではないと明確に証言しているのであって、その信用性は高いということができる。

(3) その他、右死体の歯および歯槽骨とAのそれとには、次のような類似点がみられる。

ア 全体として歯槽膿漏の状態が強く、殊に、上顎右側第一大臼歯において、歯槽骨が顕著な吸収を示しており、その吸収の形態も極めて類似している。

イ 個々の歯牙の形態や大きさ、全体の歯並びも極めて類似している。

以上のとおりであって、Aの歯の状態と前記死体のそれとは、正しく同一人のものというべきである。

弁護人は、両者間には、上顎左側第二大臼歯ほか三本の歯牙の有無や上顎左側第二小臼歯のくぼみの有無等に相違があり、両者は同一人のものではないと主張するところ、確かに両者の間に若干の食い違いがみられるものの、それらはすべて生前のAの歯の状況の判定の根拠となった同人の歯のレントゲン写真が撮影された時点(昭和五二年六月四日又は同年九月三〇日のいずれか)後の新たな歯の抜去、脱落ないしは治療によるものと認められる。すなわち、まず、前記伊波証言及び歯科診療録によると、Aの上顎左側第二大臼歯は、昭和五二年一〇月三日に抜歯されたことが認められ、また、その有無が相違点となっている他の三本の歯についても、前記鈴木鑑定及び河原鑑定によると、右死体の下顎左側中切歯及び側切歯は、その歯槽硬線の状態から、死亡時の前後に脱落したものと認められる。したがって、右の相違は、いずれも右レントゲン写真の撮影後に生じた変化ということができるから、これをもって矛盾をきたす相違点であるとはいえない。また、右死体の上顎右側第二小臼歯については、その欠損時期を明らかにすることができないけれども、これも絶対的な矛盾点とはいえない。さらに、伊波証言によると、右死体の上顎左側第二小臼歯のくぼみは、同証人が前記のとおり昭和五三年一二月四日にAの歯の治療として、上顎左側第一大臼歯、第二大臼歯のあとにアイバー・パーシャル・デンチャーという術式を用いて入歯を入れた際につけた治療跡であると認められるから、時期的にみても何ら矛盾とはならない。

(二) 性別、年齢、血液型等

第四回公判調書中の証人鈴木和男の供述部分、証人河原英雄に対する当裁判所の尋問調書、牧角三郎、鈴木和男及び河原英雄各作成の各鑑定書並びに東京都大田区長作成の戸籍謄本によれば、前記死体は、男性屍で、死亡時の年齢は五〇代であったと推定され、昭和五五年当時のAと一致していることが認められる。

また、福岡県警察犯罪科学研究所長作成の「鑑定結果について」と題する書面によると、前記死体の血液型はA型であることが認められる。一方、Aの血液型についてみるに、押収してあるAの日記帳(前同号の44)の覚書欄には「血液型A」との記載がなされていること、同人の親族の血液型を調べてみたところ、同人の前妻PはO型、その間に生れた子供のうち一名はO型、二名はA型の血液型であることが確認されていることから、Aの血液型はA型以外は不適合であること(菊池哲作成の鑑定書)、を総合するとAの血液型はA型であると認められ、両者は、血液型の点でも一致している。なるほど、Aの前妻Pが捜査官に対し当初はAの血液型をAB型と申告していたことは弁護人の指摘するとおりであるが、第七回公判調書中の証人佐々木善三の供述部分によれば、同女がAの血液型をAB型と申告したのは特別根拠があってのことではなく、単なる記憶に基づくものと認められ、前記認定を左右するものではない。さらに、右「鑑定結果について」と題する書面及び寺井伸一の司法警察員に対する供述調書によると、右死体とAとは、髪を染めていた点でも一致していることが認められる。

なお、弁護人は身長の点で両者は矛盾していると言う。

そこで、関係各証拠中、生前のAの身長についての同人の近親者等同人と親しかった者の供述、すなわち、P、D及びQ(昭和六〇年一〇月三日付)の検察官に対する各供述調書並びにR(謄本)、S、T、U及びVの司法警察員に対する各供述調書を検討すると、Aの身長に関する供述は相互に多少の食い違いがあり、結局、Aは、男性としてはかなり背が低く、一五〇センチメートル台であったという以上には限定できず、また他方、前記死体の身長も発見時には死体の腐敗が進行していたこと、死体が屈曲している状態で測定が行なわれたことからすれば、司法警察員作成の昭和五五年八月一七日付実況見分調書に記載されている一五〇ないし一五三センチメートルという数値にもある程度の誤差が見込まれるところであるから、相互に矛盾があるとはいえない。

3 Aの死亡時期

証人牧角三郎に対する当裁判所の尋問調書、証人木村康に対する受命裁判官の尋問調書、牧角三郎の司法警察官に対する供述調書、牧角三郎及び木村康各作成の各鑑定書及び牧角三郎作成の死体検案書を総合すると、前記の死体の状況から判断できる死亡時期は、死体発見時の一、二箇月前と考えられ、最短で三週間くらい、最長で三箇月くらいであることから、昭和五五年五月一三日ころから同年七月二三日ころまでの間ということになる。なお、牧角鑑定は、死体にハエのウジ等がみられなかったことから、ハエのいなかった時期に死亡したと判断して(牧角証言)、死亡時期を死体発見時の二、三箇月以上前と推定している部分もあるが、死体発見時にハエのウジ等がみられなかった理由は必ずしもハエのいない時期に死亡したことに限られるわけではないから、右判断はその前提に多大の疑問が持たれるうえ、同人は、後に証人として証言した際、死体の皮膚や臓器の状態等を具体的にふまえたうえで、死亡時期が七月下旬であってもおかしくないと明確に述べているのであって、前記鑑定部分は、右結論に影響を及ぼすものではない。

一方、後記のとおり、生前のAの行動に関する関係各証拠によると、Aの生存が第三者によって確認された最後の時点は昭和五五年七月二三日午後六時ころであって、Wが△商興株式会社の事務所で電話で会話を交わしたときであると認められる(なお、被告人は、同月二五日にAと福岡市内及びその郊外で接触したことを終始認めている。)。

これらの事実を総合すると、Aの死亡時期は、昭和五五年七月下旬ころということができ、その中でも七月二四日又はその直後ころの可能性が最も高いと認められる。

4 まとめ

以上のとおり、前記死体とAの間には顕著な一致点が数多く認められ、昭和五五年八月一三日に福岡県筑紫野市内の山中で発見された前記身元不明死体はAの死体に他ならないということができる。このことは、Aが、同年七月下旬ころから、消息を絶っていることとも符合するところである。

二  Aの死因について

証人渡辺博司の当公判廷における証言、証人牧角三郎に対する当裁判所の尋問調書、証人木村康に対する受命裁判官の尋問調書、牧角三郎、渡辺博司及び木村康各作成の各鑑定書、牧角三郎作成の死体検案書並びに司法警察員作成の昭和五五年八月一七日付実況見分調書及び同月二二日付写真撮影報告書によると、前記の死体頭部の骨折の形態や死体外陰部が死後鋭利な刃物で切り取られていることなどに照らせば、Aの死因は、転倒等による単なる事故死であるとは考えられず、後記のような鈍器で、後頭部を複数回にわたって力一杯殴打されたことによる頭蓋骨骨折を伴う打撲傷に基づく頭蓋内損傷であると認められ、このような傷害を生じさせた凶器の形状、傷害の部位及び程度、攻撃の態様並びに前記のような死体の遺棄状況等に徴すると、Aは何者かによって殺害されたものと認めることができる。

なお、証人渡辺博司の当公判廷における供述、証人木村康に対する受命裁判官の尋問調書、渡辺博司及び木村康各作成の各鑑定書によると、本死体の頭蓋骨の骨折の状態からすれば、凶器は、その具体的な形状までは特定することはできないものの、棒状及び平面状の作用面を有するある程度の重量をもった硬固な鈍体であると認められる。

三  以上の事実を総合すると、何者かが、昭和五五年七月下旬ころ、福岡県内又はその周辺において、Aに対し、殺意をもって鈍器で同人の頭部を数回殴打し、よって、そのころ、同人を頭蓋骨骨折を伴う打撲傷に基づく頭蓋内損傷により死亡させて殺害したことが認められる。

第二  被告人とA殺害の犯行との結び付きに関する証拠(事実)及びその争点

前述のとおり、Aは何者かによって殺害されたうえ遺棄された事実を認めることができる。そこで、更に進んで、右が被告人の犯行によるものであるか否か、すなわち、被告人とA殺害との結び付きを証明する証拠の存在について検討する。まず、客観的証拠としては次のものがある。(一)被告人が五年前の昭和五五年七月二五日筑紫野市郊外の三群山山中の杉林の中にAの死体を放置してきたと自供し、その場所を図示したので、右自供及び図面に基づいて捜査したところ、同所において、同年八月一三日身元不明の死体が発見されていたこと、右死体はAであり、同人は何者かによって殺害されたものであることが判明した。すなわち、被告人が殺害されたAの死体の遺棄場所を知っていたという事実は、被告人とA殺害を結び付ける客観的証拠として重要な価値を有する。(二)その他の情況証拠として、(1)被告人は、同年七月二五日午前九時ころ、福岡市内のレンタカー会社からレンタカーを借りていること、(2)同日、同市内博多城山ホテル客室に立ち寄ったところ、同客室のベッドに多量の血液が付着していたのでこのままではまずいと考え、シーツを取り替え、五〇〇〇円と謝罪のメモを置いていったとの被告人の供述に基づいて捜査したところ、そのころ同ホテル四一四号室のベッドマットに多量の血が付いていて、シーツ等が紛失しているうえ、五千円札と謝罪のメモが置かれていた事実が判明した、すなわち、被告人が同日、右客室に所在し、その際ベッドマットに多量の血が付着するという異常な状況が発生していたこと、(3)被告人は、A失踪の直後から、同人の所持していた同人の実印、印鑑登録証、銀行印、定期預金通帳並びに同人が代表取締役をしていた会社の社印、小切手帳を所持していたほか、多額の金員を支出していたこと、(4)被告人にはA殺害の動機となりうる状況が存在していたこと、(5)被告人はAの失踪後、右印鑑類等を使用して判示第二ないし第九の財産を含むAの全財産を乗っ取りとも評しうる方法で処分していること、Aの失踪について関係者に虚偽の説明をしたり、不自然な態度をとったりしたことなど多数の情況証拠が存在する。

次に、自白を含む被告人の供述としては、被告人の昭和六〇年八月二九日付司法警察員に対する供述調書、同年一〇月六日付及び同月三〇日付検察官に対する各供述調書並びに被告人作成の供述書、図面等が存在するほか、主要なものとしては取調べに当たった検察官及び司法警察員に対する被告人の供述を内容とするこれらの取調官の証言がある。これらの証拠によると、被告人の供述は以下のような内容になっている。被告人は、判示第二ないし第九の事実で昭和六〇年七月一六日以降逮捕・勾留されて取調を受け、Aの生死、その所在について追及を受けていたが、Aとは昭和五五年七月二五日福岡市内及びその郊外で行動を共にした後太宰府の山中で生き別れてからはその消息が分からないと述べていた。しかし、八月二三日に至って、Aの死体遺棄場所を開示するとともに、右遺棄場所近くの小川で転倒し、頭部を石に打ち付け瀕死の状態にあったAを小川から引き上げて右遺棄場所に放置してきたと述べ、同月二九日には、右小川でAの頭部を石で殴打し(更にその辺りにあったロープで首を絞め)て殺害したうえ、その死体を右遺棄場所に遺棄したとの自白をした。しかし、その直後自白をひるがえし、福岡市内の中洲のホテル(博多城山ホテル)に行ったところAが死んでいるのを発見し、Aの死体を隠匿して同人の財産を乗っ取ろうと考え、死体を緊縛し、ダンボール箱に詰めて搬出し、レンタカーに載せて右遺棄場所に遺棄したと供述した。同年九月一日には、右ホテルでAを花瓶のようなもの(又は灰皿)でその頭部を殴打して殺害し、その死体を前記の方法で搬出し、右遺棄場所に遺棄したとの自白をし、同月二日には、右ホテルにAと立ち寄ったことはあるが、その後同人と一緒にレンタカーで福岡市内や太宰府付近をドライブして前記小川に立ち寄り、同所で同人の頭部を石で殴打して殺害したと、更に、同月一二日には再度殺害場所は右ホテルであると述べ、凶器も灰皿であるとの供述をした。ところが、同月一四日以降は殺害の事実を全面的に否定し、Aと右ホテルに立ち寄った後、同人と一緒にレンタカーで福岡市内や太宰府付近までドライブしたが、最後は福岡市内で別れており、Aを殺害していないし、本件死体遺棄現場にも行っておらず、本件遺棄現場を知ったのは、同所から身元不明死体が発見されたとの新聞報道に基づき同所を見に行ったことによると述べるに至っている。

これらの客観的証拠、自白及び否認その他の供述が有する証拠価値及び証明力並びに争点について考察するに、被告人がAを殺害したことを証明する客観的証拠として、最も重要かつ証明力の高い証拠は、被告人が殺害されたAの死体が遺棄された場所を知っていたという事実である。もし、被告人が他からの情報に基づくことなく、自ら直接右遺棄場所を知っていたものであれば、右事実はいわゆる秘密の暴露に当たり、Aの死体遺棄場所を知っていたことを客観的な事実としてとらえた場合、本件において被告人が右死体遺棄場所を知り得るのは、①被告人が直接Aを殺害し、その死体を右場所に遺棄したか、あるいは、②被告人以外の者によって殺害されたAの死体を被告人が右場所に遺棄したか、のいずれかによるのであり、それ以外の可能性はあり得ないのである(もっとも、第三の場合として、偶然、他のものがAの死体を右場所に遺棄するのを被告人が目撃した場合も、Aの死体の遺棄場所を知り得るのであるが、本件ではこのような事情は証拠上全く認められないし、被告人もそれを主張していない。)。したがって、右②の場合が否定されれば、右事実は被告人と本件犯行とを結び付ける決定的な証拠として評価される。この点についての被告人の供述には、Aを殺害し、その死体を右遺棄場所に遺棄したとする自白供述がある一方、Aが博多城山ホテルの客室で死んでいるのを発見し、その死体を右遺棄場所に遺棄したとの供述や、Aとは福岡で別れたままとなっており、同人の死体の遺棄場所を知り得たのは、同所から発見された身元不明死体に関する新聞報道に基づくものであるとの供述があり、弁護人も、被告がAの死体の遺棄場所を開示したとしても、秘密性がなく秘密の暴露といえないと主張する。そこで本件では、被告人がAの死体遺棄場所を知り得た事情が重大な争点となる。

また、その他の情況証拠について、前記(二)の(1)(2)のとおり被告人が昭和五五年七月二五日福岡市内にいた事実は、被告人がAの死亡推定時ころ、Aの死体遺棄場所に近接して所在していたことを意味するほか、犯行の日時場所の特定に重要な価値を有するものであるが、被告人は、同日福岡市内のレンタカー会社でレンタカーを借りたこと、同日博多城山ホテルの客室に行ったこと、同客室のベッドに血液が付着していたことは認めているものの、レンタカーを借りた時間を争い、また同日午前中にAと福岡市内で会って行動を共にしたが夕方同市内で同人と別れたと主張している。前記(二)の(3)のAの印鑑類等は、Aがセカンドバッグに入れて日頃肌身離さず携帯し、現金も同様カメラバッグに入れて携帯していたものであるから、Aから奪うなどの方法による以外に、特段の事情もなく被告人の手に入るものではない。ところで、被告人は、捜査段階では、同月二四日Aの自宅で密かに奪っておいたと述べていたが、公判廷では、同日、同人が代表取締役をしている会社の経営を任され、同人から右社印等も預かり、その際Aの実印等はAが被告人を裏切らないようにするための担保として所持していたものであり、また、Aの所持していた現金を奪ったこともないと主張する。前記(二)の(4)の動機に関し、被告人はA殺害の動機となるような事情がないと主張する。(二)の(5)のA失踪後同人の財産を処分した行為等は、被告人がAを殺害するか、あるいは同人が死亡したことを知っていなければできない行動であるが、被告人は、Aから委託された前記会社の経営の一環として、あるいは失踪したAの財産管理として、Aのために行なったもので、Aの失踪が長期にわたったため、厳格な財産管理とはいえないものがあるとしても、A殺害と結び付くものではないと争っている。もっとも、これらの情況証拠は、それ自体では被告人とA殺害の犯行とを直接結び付けるものではないが、他の証拠と総合して事実を判断するうえで、特に自白の信用性を判断するうえで欠かせない重要な価値を有するものである。

被告人の自白については、Aを前記小川で殺害し、遺棄したとの内容の昭和六〇年七月二九日付司法警察員に対する供述調書があるのみで、判示第一の博多城山ホテルでの殺害の事実に添う自白は、取調べに当たった検察官及び司法警察員に対する被告人の供述を内容とするこれら取調官の証言によるものであり、被告人・弁護人は自白それ自体の存在あるいはその正確性を争っている。その他自白の信用性や、犯行の日時、場所、殺害方法の特定並びに死体の搬出、遺棄の方法及びその可能性等が問題となる。もっとも、本件では、被告人の自白を内容とする証言のほか、ホテルの存在、同ホテルの客室の状況、死体梱包の方法及びその材料の入手先その他被告人に不利益な事実を内容とする被告人作成の供述書、図面等が存在する。そこで自白の真偽を検討するに当たっては、被告人の否認その他の供述と対比し、かつ、前記の客観的な証拠等を総合して判断する必要がある。

このような観点から、以下に、検察官及び被告人・弁護人の主張をふまえて、被告人がA殺害の犯人であるとの証明が十分なされるか、右認定について合理的な疑いの存在を完全に排除できるか否か、を証拠に基づいて考察する。

第三  被告人とA殺害の犯行との結び付きに関する客観的証拠(事実)の検討

一  被告人がAの死体の遺棄場所を知っていた事実について

1 Aの死体の遺棄場所についての被告人の供述

被告人の検察官に対する昭和六〇年一〇月六日付供述調書、被告人作成の死体を放置した場所の付近等を描いた図面二葉、Aの遺体があると思われる場所を記入した地図一葉、証人白石忠司の当公判廷における供述、第三回及び第四回公判調書中の証人高橋弘の各供述部分並びに第七回及び第八回公判調書中の証人佐々木善三の各供述部分によると、被告人がAの死体の遺棄場所について供述した状況及びこれに対する裏付捜査の状況は次のとおりである。すなわち、被告人は、それまでAとは太宰府付近の山中で別れたと述べていたが、昭和六〇年八月二三日、取調担当の佐々木検事から、「今日、君の奥さんから、いろいろ話を聞き、君の性格などもよく分かった。君の今までの話を聞いていると事実もあるし、事実でない部分もある。事実でないことを前提にしてこのまま話を続けていけば、君が苦しくなるだけだ。私も白紙の状態に戻って、全部最初から聞くから、君も白紙の状態に戻って最初から全部話しなさい。」と言われ、涙をぽろぽろ流し、持っていたハンカチでしきりにその涙を拭った末、「Aさんの遺体があると思われる場所を示します。」と言って、佐々木検事が示した日本分県地図地名総覧57の四〇頁福岡県全図のうちの「筑紫野市」という市名が書かれている近くの「岩本」とか「坂部」とか書かれている辺りを指で指し示し、「場所は、大体この辺りだと思います。この地図では大き過ぎて分からない。明日にでももっと詳しい地図を用意してもらえば更に具体的に特定します。いずれにしても、地形とかAさんの遺体がある場所についてはよく記憶しているので、図面を書いてみます。」と言って、被告人は、何も見ずに、また、下書きをすることもなく、図面一葉を作成し(昭和六〇年八月二三日付図面)、その際、「昭和五五年七月二五日にAと一緒にAの長男Dの働いている嬉野温泉に行くため、同所に向かっている途中、Aがちょっと休んでいこうと言うので、この場所に立ち寄ったが、小川でAと一緒に水遊びをしていた際、同人が自分の方に向かって来ようとして川の中で転倒した。その時、Aは、川底の石ころに頭部を打ち付けたように見え、けがをしており、鼻から多量に血を流し、口から血の混じった泡を吹いていたので、陸に引っ張り上げた後、杉木立の中に放置してきた。Aはそこで死んでしまったと思う。」旨供述した。

佐々木検事は、同日、被告人の供述の裏付けを取るために、福岡県筑紫野警察署に電話をかけたが、電話口に出た当直員は、「岩本」とか「坂部」とかの地名すら知らない様子であったので、その日はそれ以上裏付け捜査をすることをやめ、翌二四日午後二時過ぎから、警視庁で再び被告人の取調べをし、その際、あらかじめ買ってきていた太宰府の二万五〇〇〇分の一の地図を被告人に示したところ、被告人は、三群山の「航空監視レーダー局」の記載を見て、「これじゃないか、これに上がる途中の道に現場がある。」と言い、右地図のコピーに、道と思われる場所を基準にして、ボールペンで三箇所に丸印を付け、「この三つのうちのどれかでしょう。」と指示し、右地図上の「Aさんの遺体があると思われる場所」、「昭和六〇年八月二四日」の各文字の記載及び「甲(被告人)」の署名指印をした。佐々木検事は、次いで、被告人にAを放置してきた場所についてもう一度きちんと細大漏らさず記載した図面を書くように求め、その結果、被告人は死体遺棄場所及びその周辺の状況についての詳しい図面を作成した(昭和六〇年八月二四日付図面)。

右図面及び被告人の供述内容は、Aの死体のある場所は、筑紫野市から「岩本」「坂部」を経た、広いバス通りから、何かの標識のあるところを横に入ったNHKの中継施設か送電施設のような施設に通じる幅四、五メートルくらいの上り坂の道路と、これとほぼ並行して流れる幅五メートルくらいの小川に囲まれた下草のある杉木立の中で、この杉木立に隣接して採石用のパワーシャベルの置かれた石ころ河原があり、その間は七〇センチメートルないしは一メートルの段差で杉木立側が低くなっており、また、右道路の反対側には車五台くらいが駐車できる平坦な造成地となっているというものである。

佐々木検事は、同日、被告人が作成した右図面の場所が実在するか否か裏付けを取るため、別室に行き、筑紫野警察署御笠駐在所に電話して、同駐在所の警察官に、バス通りから三群山のレーダー局に上がる道の途中の左手に空地があり、右手に石ころ河原のようなものがある場所があるかどうか尋ねたところ、同警察官は、その道を上がってしばらく入ったところに、左手に造成地があり、右側に造成地のような場所があり、そこは以前石ころのころがったような場所であった可能性があると答えたので、佐々木検事が、更に、右側の造成地の奥の方に小川が流れているかどうか尋ねたところ、同警察官もそこまで記憶していなかったが、同駐在所からそれほど遠くない場所であるということから、すぐに自転車で確認に走ってくれ、その結果、被告人が描いた図面にあるように、小川が流れていることが判明した。

同席していた警視庁刑事部捜査第四課の白石警部補が、筑紫野警察署に電話をかけ、その近くで変死体が発見されたことがないかどうかを確かめたところ、柚須原で、五年前に白骨死体が出ており、被害者の身元不明の殺人事件として迷宮入りになっている事件のあること、その変死体の発見された現場が被告人の描いた図面と似ていることが判明した。

2 被告人の供述する死体の遺棄場所と死体の発見現場との一致

第一九回公判調書中の証人Nの供述部分、同証人に対する当裁判所の尋問調書、Oの司法警察員に対する供述調書、当裁判所の死体発見現場についての検証調書及び司法警察員作成の昭和五五年八月一七日付実況見分調書によると、Aの死体が発見された時の現場の状況は、前記第一の一1記載のとおりであるが、その場所は、山麓に太宰府を包有する宝満山系の一つである三群山の三合目付近に当たり、県道六五号線(筑紫野、筑穂線)から九州自然歩道入口の標識のあるところを横に入った運輸省航空局福岡航空路管制基地入口に通じる幅約四メートルの柚須林道と、その東方をこれとほぼ並行して流れる幅約2.5メートルの中島川に囲まれ、北方が高く、南方が低くなった山腹で、北側は庭石採石場の一部をなしていて、石が多数露出しており、南側は下草の生えた杉林となっていて、死体発見現場はこの杉林の中に位置しており、被告人の捜査段階での説明と、道路や小川、採石場、杉林等の状況やこれらと死体発見地点との位置関係等が、重要部分において正しく一致している。特に、右中島川を隔ててこの杉林と隣接してブルドーザーの置かれた庭石採石場があること、死体発見現場の杉林とその隣の庭石採石場の土地との間には数十センチメートルの段差があり、死体発見現場側が低くなっていたこと、前記柚須林道の西側には普通乗用車が四、五台駐車できる空地になっていたことなどが、極めて詳細な点にわたって、被告人の説明と具体的に符合していることが認められ、被告人の供述するAの死体の遺棄場所は、現実に同人の死体が発見された場所にほかならないということができる。

3 捜査の進展状況(死体の遺棄場所の秘密性)

第七回及び第八回公判調書中の証人佐々木善三の各供述部分並びに第三回及び第四回公判調書中の証人高橋弘の各供述部分によると、被告人の取調べに当たった検察官及び警察官は、被告人が本件犯行当日ころ福岡にいたとは全く考えておらず、逮捕後まもなくのころから被告人は一貫して、そのころAと一緒に九州に行っていたと供述していたにもかかわらず、むしろ東京都内におけるA殺害を想定し、被告人に九州の話は二度としないよう誓約書を書かせるまでして被告人を追及していたが、昭和五五年八月二三、二四日の両日にわたって、前記1のとおり、被告人がAの遺体があると思われる場所の付近の情景等を供述し、その場所を図面に描いたことがきっかけとなり、現地の警察に問い合わせた結果、同一場所で昭和五五年八月一三日に身元不明死体が発見され、迷宮入りとなっていたこと、当時の捜査資料と比照した結果、右死体はAであることが判明したことが認められ、被告人自身も、捜査段階以来一貫して前記図面が取調官の誘導により作成されたものではないことは認めている。もっとも、被告人は、段差の存在については知らなかったが、取調官の誘導ないしは取調官とのやり取りのなかで段差があるように書かされたと述べ、弁護人も、犯行現場付近の状況に関する白石忠司作成のメモ三枚(写)の存在を根拠に、被告人が昭和六〇年八月二四日にAの遺体のある場所を示した時点では、捜査側は、既に当該場所の情況を知っていた旨主張するが、被告人の取調べにあたった佐々木善三及び白石忠司は、前記の被告人作成の図面をもとに現地の警察に電話で問い合わせた結果、被告人が図面に描いた場所と類似した場所からかつて身元不明死体が発見されていることが判明し、その際とられたのが前記の白石メモであると明確に証言しており、このことは、白石メモには記載されていなかった段差の高さにつき、被告人の図面には客観的事実とほぼ合致する記載がなされていること、白石メモが先行し、これにより誘導がなされていたとしたら当然合致していたはずであると思われる小川の川幅や造成地の広さなどの点で両者に食い違いがみられることに照らしても、その信用性は高く、被告人の供述は信用できない。

してみると、Aの死体の遺棄場所は、被告人の供述により初めて捜査機関に発覚したといえるのであって、右死体は五年前既に身元不明死体として同所で発見されていたが、右死体がAであることは、被告人が開示するまで他の何人にも知られていなかった事実なのである。

4 被告人の弁解

被告人は、Aの死体のある場所を図示できたのは、次のような理由によるものであって、自分はA殺害とは無関係であると述べている。すなわち、昭和五五年八月中旬ころから、Aの姿が見えないので不審に思っていたところ、福岡市郊外で身元不明死体が発見されたという新聞記事をたまたま目にし(この点、捜査段階においては、たぶん毎日新聞で読んだと思うと述べていたが、第二四回公判期日に至って、情報入手源は新聞であった可能性が高いものの、明確には記憶していないと述べ、供述を変遷させている。)、さらに、その後九州地方に大雨が降った旨の報道がされたりしたことから、あるいは右死体がAではないかと思うようになり、西日本新聞に電話連絡をとって送ってもらった関連記事を読んだところ、一度現地を確認するとともに地元の警察に事情を聞いてみようと思い立ち、同年九月下旬か一〇月ころ飛行機で福岡に赴き、空港到着後タクシーで現場に向かい、現場ではタクシーからは降りたものの、歩き回ることなく、その場で周囲を一瞥しただけで立ち去り、現地の警察にも自分が疑われるのを恐れて立ち寄らず、結局そのまま日帰りで東京に戻った、というのである。

しかしながら、検察事務官作成の昭和六〇年八月二六日付捜査報告書によれば、本件の身元不明死体発見に関する当時の東京都内での新聞の報道状況は、朝日、読売、毎日、日経の大手の新聞のうち、これを報道したのは毎日新聞だけであり、しかもその記事は二百字程度の非常に簡単なもので、その内容も、三、四十歳代の女性死体が発見されたというもので、これを男性死体と訂正する翌日の簡単な記事と併せもってしても、この記事とAとを結び付けるのは、ほとんど不可能といってよく、被告人の弁解にはまずその前提に多大の疑問が持たれるところである。被告人は、第二四回公判期日以降は必ずしも情報入手源は新聞であったとは限らない旨供述を変えているが、それまでは、公判廷においても新聞で見たと明確に述べており(第一一回公判調書中の被告人の供述部分)、捜査段階においては、断定はしないまでも新聞紙名まで特定するなどしている(被告人の検察官に対する昭和六〇年一〇月六日付供述調書)のであって、かかる突然の供述変更を単なる勘違いないしは言い間違いとする被告人の弁解は到底納得できるものではなく、むしろAの行方と九州とを結び付けるに至った経緯として新聞記事のみをもってしては説明に無理があることに気付いての窮余の弁解と思われるところであり、これを安易に信用するわけにはいかない。また、仮に、このような疑問をひとまずおいたとしても、そもそも、被告人の言う目的を達するには、九州まで多大の時間と費用をかけて出向かなくても、まずもって東京から現地の警察に電話一本かければよいことを、わざわざ自ら九州まで赴き、結局は唯一の目的であった現地の警察に立ち寄り、その死体がAであるか否かを確かめることすらせず、何の成果も得ないままその日のうちに東京に戻ったという弁解自体到底ありそうにもない不自然なことである。また、もし現地に行ったのであれば、被告人の言うように車から降りて、特段の意味もなく一瞥したにすぎない現地の光景を、取調時までの五年近くもの間記憶を保持し続け、右身元不明死体の発見現場と細部にわたり一致するような図面が描けるとしたら、これまた不自然というほかない。むしろ、このような場所の光景を五年もの長期間の後、誠に正確に記憶を再現できたということ自体、右場所が被告人にとって非常に重要ないしは特別な意味をもつものであることを示すものにほかならない。なお、被告人の公判廷における供述では、被告人は、現場で車から降り、その場で周囲をきょろきょろ眺めただけで帰ってきたので、周りが杉林であり、ブルドーザーがあるということくらいは分かったものの、近くに採石場があることや前記のような段差の存在はおろか、小川の存在すら分からなかったが、これらの点については想像だけで前記の図面を作成したと述べている。しかし、前述のように、被告人の作成した図面と死体発見現場の状況は、現実に現地を詳しく見て歩いた者でなければ容易には再現できないほどに、細部にわたり見事にまで符合しているのであって、これが単なる偶然の一致であるとは全く考えられない。さらに、被告人が単に新聞報道によってAと思われる死体が発見されたことを知り、わざわざその現場を見に行ったのであれば、A殺害の嫌疑を受けている被告人としては、極めて重要かつ有利な事情であるから、何をおいても直ちにこのことを捜査官に述べるのが自然である。しかるに、Aの行方を追及されながら右の新聞報道については何も触れず、更にAの死体の遺棄場所を開示した後、自己に最も不利なA殺害とその死体遺棄を認めたり、死体遺棄場所付近の小川で事故死したAを放置してきたとか、ホテルで死んでいたAを発見し、これを運び出して遺棄したなどと、ことさらに自己に不利益となるような弁解を、種々試みた末、ようやく逮捕から二箇月後にAと思われる死体の遺棄場所を知ったのは新聞報道によるものであるとの主張を始めたのである。もしこれが真実であるのなら当然もっと早い時期に述べていたはずであり、このことからもこれが窮余の弁解であることが窺われるのである。以上のとおりであって、被告人の弁解は到底措信しうるものではない。

5 まとめ

以上の事実を総合すると、殺害されたAの死体の遺棄場所は、本来ならば、Aを殺害して遺棄した者かあるいは殺害されたAの死体を遺棄した者しか知り得ない事柄であり、被告人は捜査官の知る前に、他のいかなる情報にも基づくことなく、自ら直接その場所を知っていたもので、いわゆる秘密の暴露に当たるというべきである。このこと自体からは、直ちに被告人がAを殺害したとの結論を得ることはできないが、少なくとも被告人がAの死体を遺棄した事実は争う余地がないところであるから、他の者によって殺害されたAの死体を被告人が遺棄したのでなければ、被告人自らがAを殺害し、その死体を遺棄したことにほかならない。このような意味で、右事実は、被告人と本件犯行を結び付ける重要な情況証拠である。

二  被告人が、Aの死亡推定日ころ、その死体発見現場に近接して所在していた事実について

1 被告人が昭和五五年七月二四日及び二五日に福岡に所在していたこと

(一) 証人立石輝雄に対する当裁判所の尋問調書、警視庁科学捜査研究所文書鑑定科主事小島直樹作成の鑑定書及び押収してある売上伝票控(番号四三〇九二)一枚(前同号の18)によると、被告人が昭和五五年七月二五日に、福岡市博多区博多駅東一丁目一二番五号株式会社日産観光サービス博多駅前営業所においてレンタカー一台を借りたことが認められるが、右伝票控の貸渡期間欄の記載によると、同営業所での貸渡期間は午前九時〇〇分となっている。証人立石輝雄に対する当裁判所の尋問調書によれば、同営業所においては、レンタカーの貸渡しの際記入される貸渡期間欄には、現実に実際の貸渡しがなされた時間が記入されるのが原則であり、場合によっては、客へのサービスで実際の貸渡時間より若干遅い時間が記入されることもあり得るが、それより前にさかのぼった客に不利になるような時間の記載をすることは絶対になく、このことは事前に予約があったような場合でも同じであるとのことであるから、これらの事実を総合すると、被告人が昭和五五年七月二五日の午前九時には前記営業所にいたことは明らかであるというべきである。

ところで、被告人は、九州に行った方法については、捜査段階から一貫して飛行機であると供述しており、このことは、昭和五五年七月二八日ころ、自宅で福岡行きの飛行機の塔乗券を見かけたというXの検察官に対する昭和六〇年八月二八日付供述調書によっても裏付けられるところ、証人立石輝雄に対する当裁判所の尋問調書並びに日本航空株式会社スケジュール統制部長斎藤俊郎、全日本空輸株式会社運送本部運行業務部長山本達雄及び東亜国内航空株式会社運行本部管理部管理グループ長各作成の各捜査関係事項照会回答書を総合すると、昭和五五年七月二五日の朝に東京から最も早く福岡に到着する飛行機便は、日本航空の羽田発福岡行きの三五一便であり、当日のその実到着時間は午前九時八分であったこと、福岡空港から前記日産観光サービス博多駅前営業所までは約四キロメートルあり、車でも一〇分ないし一五分くらいかかることが認められる。したがって、当日、午前九時に右営業所でレンタカーを借り受けるには、その日の朝に飛行機で東京から福岡に行ったのでは間に合わないこととなり、前日までには被告人は福岡に到着していなければならないこととなる(ちなみに、夜行列車によっても同じである。)から、結局、被告人が昭和五五年七月二四、二五日の両日に福岡にいたということができるわけである。

この点、被告人は、捜査段階から一貫して、同月二五日に福岡に行きAに会ったが、Aがあらかじめレンタカーの借受手続を進めてくれていた旨弁解し、弁護人は、弁護人の依頼で福岡市内にある日産レンタカーの営業所における借受手続の実際を調査した証人萬場友章の当公判廷における供述によれば、貸渡時間の記載は必ずしも現実に貸渡しのなされた時間が記載されるわけではないというべきであるから、上記の証拠をもって被告人が昭和五五年七月二五日の午前九時に前記営業所にいたとはいえないと主張している。

そこで、検討するに、確かに、同証人の供述によると、若干の例外的事例が認められないわけではないが、そもそも、自動車の運転免許を有しておらず、しかも何かにつけて被告人を使い走りのように扱っていたAが、被告人のためにあらかじめレンタカーの借受手続をしておくなどということ自体、ありそうにない話というべきであり、被告人の供述の信用性が疑われるところであるが、右萬場の調査においても、現実に貸渡しのなされた時間よりもさかのぼって時間が記載されたとして報告されている事例は、借受人の代理人が実際に営者所まで赴いたうえ、代理人自身の運転免許証を示して借受手続を終えておいた事例と、借受人がもうすぐ来る旨告げて手続を進行させた事例の二例に過ぎず、いずれも極めて特殊な場合についてのものであるところ、被告人の当公判廷での供述によると、Aは運転免許を持っていなかったというのであるから、前者の例は考えられず、また、被告人の当公判廷における供述によると、Aはレンタカー会社でレンタカーを予約した後、三井アーバンホテルに帰り、被告人が来るのを待って、二人で再びレンタカー会社に行ってレンタカーを借りたことになり、後者の例と事情を異にする。しかも、運転免許証を持っていないし、身元も不確実な者が、その場に留っていればともかく、後で借りに来るという程度の予約をしたとしても、確実な予約として受け付けるとは到底考えられないところである。したがって、被告人が実際にレンタカーを借用した時間が午前九時より後である可能性はないといえる。

また、被告人は、同年七月二四日は東京にいて、昼ころから夕方までAと一緒に同人の田園調布の自宅で過ごし、そのあと羽田まで車で同人を送り、九時か一〇時ころスナック「○△」に行ってママのYに同店従業員の給料に充てる現金を渡し、夜は、麹町のマンションに泊まったと述べている。しかし、これは、給料の手当をしてもらったのは午後一時半ころから三時ころまでの間であるとのYの供述(第六回公判調書中の証人Yの供述部分及び押収してある電話連絡簿一冊((前同号の19)))や、被告人の経営する△商興の事務所に備え付けられている電話連絡簿に、同日午後三時ころ馬場良治が被告人から車を借りるか、借りた車を返すかをしたことを意味する記載がある事実(証人馬場良治及び同鶴見幸枝の当公判廷における各供述並びに前記電話連絡簿一冊)とも食い違っており、その他同日午後Y以外に被告人を東京で見た者がいない事実に照らせば、被告人が同日中東京にいたとの前記供述は到底措信できない。

(二) 後記認定のとおり、被告人は昭和五五年七月二五日の午前中、福岡市博多区中洲五丁目三番四号博多城山ホテル四一四号室に所在し、その際、同客室のベッドに多量の血が付着していた事実、被告人は同室を出る際、「よごしてすみません」という趣旨のメモと五千円札一枚を置いて行った事実、被告人が出た後、同室のベッドのシーツ、毛布、ベッドパット及び枕が紛失していた事実が認められる。

2 Aの生存が確認された最終日時及びその場所

関係各証拠、特に、W及びY(二通、昭和六〇年一〇月七日付については不同意部分を除く。)の検察官に対する各供述調書並びに押収してある電話連絡簿一冊(前同号の19)によれば、Aが被告人以外の第三者と接触をとったことが確認できる最終の時点は、同人からの電話を△商興の事務所でWが受信した昭和五五年七月二三日午後六時ころであるが、直接Aの姿を見たのは、Yがスナック「○×」で会った同月二一、二日ころであると認められ、それ以後に直接Aの生存を確認した者は現われていない。

一方、後記のとおり、被告人は、同月二三、四日の両日にはAの田園調布の自宅で同人と会い、翌二五日には福岡で同人と行動を共にしていたと捜査段階から一貫して述べているところ、後記認定のとおり小切手の不渡りを出した直後であった当時の被告人の置かれていた状況からすれば、Aの援助を必要としていたこと、九州は被告人にとって個人的な関係においても仕事上の関係においても全く無縁の土地であったこと、Aはしばしば旅に出かけていたこと等の事情に照らすと、二四日ころ被告人がAに会うため福岡に赴いたと推認されるのであるから、福岡でAと会ったとの被告人の右供述は、具体的な経緯や日時の点を除いた大筋においては事実に符合するものといえる。

3 まとめ

以上の事実は、Aの死体が発見されたのが昭和五五年八月一三日で、同人の生存が最後に確認されたのが同年七月二三日午後六時ころであり、この間に被告人が福岡市に所在したのは同月二四、二五日の両日のみで、その余の日はいずれも東京にいた事実と併せ考えると、被告人がAの死亡推定日ころその死体発見現場に近接して所在していたことを意味し、被告人と本件犯行を結び付ける客観的事実の一つとなるものである。

三  被告人がAの失踪直後から同人の実印、印鑑登録証、銀行印、定期預金証書並びに同人が代表取締役をしている株式会社A企画、有限会社△×企業及び有限会社キャピタル×○の社印、小切手帳等を所持していた事実について

後記五の2において認定するとおり、被告人は、A失踪直後から、Aの実印、印鑑登録証、銀行印、定期預金通帳(D名義を含む。)及び前記各会社の社印、小切手帳等を所持していたことは証拠上明白であり、被告人、弁護人ともこの点を争っていないわけであるが、Aの全財産を表象するともいえるこれらのものを同人の失踪直後から被告人が所持していたということは、被告人とAとの間に何か尋常ならざる特別な事情があったことを意味するものであり、以下のようなAと被告人の関係、印鑑類等についてのAの保管状況等を併せ考えると、被告人と本件犯行との結び付きを強く示唆するものといえる。

すなわち、P、D、Q(昭和六〇年一〇月三日付)、高田○子(同年四月一六日付)、渡部○子、肥田×彦及び坂本×博(二通)の検察官に対する各供述調書並びにT、佐川×之及びVの司法警察員に対する各供述調書によると、被告人は、Aから仕事上の相談を持ちかけられたり、同人がする契約締結の場に同席するようなこともあったが、本来的には、同人を車で送り迎えしたり、あるいはその自宅の芝生の手入れをするなど、同人の秘書的ないしは使い走り的な存在であったものであり、事業上の対等な協力者といった関係ではおよそなかったこと、Aは、妻と離婚し、子供たちとも別居してからは狐独な生活を送り、自己の財産の管理については、貴重品や重要書類を銀行の貸金庫に入れて保管していたほかは、実印、印鑑登録証、銀行印、定期預金通帳等は、セカンドバッグに入れ、また多額の現金をカメラバッグに入れ、さらに、財産の運用については株式会社A企画、有限会社△×企業、有限会社キャピタル×○を設立し、右各会社を通じて行ない、その社印、小切手帳等も同様にセカンドバッグに入れて手元に置いていたのであるが、財産に対する警戒心が人並みはずれて強いAは、これらの印鑑類、預金通帳、小切手帳等重要な物はすべてまとめて常に携帯し、これを絶対に人に預けなかったばかりか、入浴の際にも風呂場の中まで持って入るなど異常と思われるほどの警戒心をもって所持していたことが認められ、これらの点については被告人もおおむねそのとおり公判廷で述べているところである。

これらのことを前提にして検討するに、Aの印鑑類等が同人の手を離れ被告人の手元へ移った経緯としては、前記の諸点に照らし、Aの生前に被告人が同人から預かっていたということは、よほど特別な事情のない限り考えられず、むしろ不正な手段を用いて同人から取得したとみるのが自然である。

この点につき、被告人は、公判廷においては、昭和五五年七月二三、二四日の両日、Aと話し合った結果、被告人がキャピタル×○の代表者となるとともに、A企画、△×企業についても被告人が実務の中心となってやっていくことに話がまとまり、二三日ないしは二四日にAからこれらの印鑑類等一切を預かったとか、A企画、△×企業の社印及び小切手帳を預かった際、Aの実印等は同人が被告人を裏切らないようにするための担保として同人から取り上げて預かっていたと述べている。しかし、前記のように、被告人が不渡手形を出したことをめぐって両者の間に少なからぬしこりがあったと思われるこの時期において、単なる秘書的存在に過ぎなかった被告人に対し、事業上の権限委譲のみならず私的な財産管理をも事実上意味することになるこれらのものの預け渡しがあったという内容自体、そもそも極めて不自然であるばかりか、被告人の供述によっても、被告人の権限の範囲や利益分配方法について何ら明らかになっておらず、これらを曖昧にしたままこのような預け渡しがあったとは到底考えられないところである。実際にも、その後、Aとの共同事業というにふさわしいことは何ら行なっていないこと、かえって、Aの財産を乗っ取るかのごとき行動に出ていること、後述のとおり、捜査段階においては、Aのすきをみて盗んでおいたというこれとは異なった供述をしていたことをも併せて考えると、被告人の前記弁解は矛盾に満ちていて到底信用できない。なお、被告人は公判廷での供述と捜査段階での供述との変遷の理由につき、捜査段階においては、殺人の点を負けてもらうために財産犯を認めることとし、その一環として前記のような供述をしたと述べているが、関係証拠によると、本件の端緒は被告人がA失踪後同人の財産を処分していることが発覚したことにあるのであって、財産犯関係の事実を認めることは、むしろ殺人の点をも認めることにつながること、捜査側は、こうした被告人の供述をそのまま信じるというよりは、財産乗取り目的でのA殺害という、強盗殺人ないしはそれに近い殺人を想定して被告人を取り調べていたことに照らし、措信できない。

一方、被告人は、捜査段階では、Aが融資の約束を守ってくれなかったため、一〇〇〇万円の不渡りを出したことから、昭和五五年七月二三日ころ、Aの自宅で同人とつかみ合いの喧嘩をし、その時Aのカメラバッグの中から三〇〇万円を抜き取り、翌二四日、Aが急に九州にいる子供のDのところに行くと言い出したため、九州に行かれてしまうと連絡を絶たれるので、その前にAのボストンバッグの中から同人の印鑑類の入ったセカンドバッグをこっそり抜き取ったと述べ、更に、同日午後七時ころ、羽田空港を発って福岡に行ったAから被告人に電話があり、「俺のバッグ持ってんだろ。」、「明日福岡に来いよ。三井アーバンホテルで待っているから。」等と言ってきたので、被告人は翌二五日朝、飛行機で福岡に行きAに会うことになったと述べている。右供述は一応筋が通っているようにもみえるが、しかし、被告人とAとの間が極めて険悪となっている時期に、ボストンバッグの中から多額の現金のほか印鑑類等の貴重品の入ったセカンドバッグが抜き取られているのを福岡に着くまでAが気付かなかったということ自体誠に不自然であり、またそうであれば、A自らがこれらの金品を取り返すため帰京するのが普通であろう。被告人はこのことを意識してか、二三日の喧嘩の際、Aを押さえつけて制圧したとか、Aは喧嘩に負けてからはぼんやりしているといった状態であったと、ことさらにAが印鑑類等や現金が抜き取られていたことを気付かない事情があったことや、これらの金品を取り返しに帰るだけの気力が失われていたかのごとき説明をしている。このような事情に照らすと、被告人の捜査段階での供述に全面的に信をおくというわけにはいかない。

してみると、印鑑類等の入手経緯につき、被告人の供述も含め全証拠によるも、被告人がAの死に関係してこれらの印鑑類等を入手したとする以外に何ら特別な事情、例外的事態の存在が合理的に窺われない本件においては、被告人がAの失踪直後から同人の印鑑類等を所持していた事実は、被告人と本件犯行との結び付きを認める証拠となる。

四  動機となりうる状況の存在

本件では、被告人のA殺害の動機を具体的に確定することは困難であるが、少なくとも、被告人がAを殺害しても何ら不自然ではない状況が存したことは十分認められる。すなわち、被告人及びAの性格、経歴及び生活環境等並びに被告人とAとの関係、特に、Aが失踪する直前の被告人とAとの財産上及び感情面での対立については、判示冒頭の犯行に至る経緯において詳しく認定したとおりであるが、とりわけ、被告人は、××屋に対し小切手の不渡を出したことを契機に、××屋が被告人の元の勤務先であり、同社関連の仕事が被告人の事業に大きな地位を占めていたことや、これからも不動産業を中心に事業を展開していこうと考えていたことから、同社に対して不渡りを出した以上、もはや今後不動産関係の仕事はできず、自分の事業計画も頓挫したと考えて大層落胆するとともに、このような状況に至った元凶は、前記のように今まで自分がほとんど無報酬で使い走りのようなことまでして献身的に尽くしてきたAにほかならないと考え、同人に対し強い憤まんの情を抱くに至り、この時、一挙に高まったであろうAとの感情的なあつれきや、両者の交際についての思惑の相違、Aの財産に対する乗っ取りの誘惑など、被告人がA殺害を企図するに至ったとしてもおかしくないような状況がそろっていたといえるのであるから、弁護人のいうように動機の不存在をもって被告人が犯人でないということはできない。

五  A失踪後の被告人の不自然な言動

Aの失踪後においても、以下のとおり、被告人がA殺害と何らかの関係を有していると考えない限り到底理解できないような数々の不自然な言動が見られる。

1 七月下旬の多額の支出

被告人は、Aが失踪した直後ころに、以下のような出所不明の多額の支出をしている。

① 七月二六日ころ、Yに約五万円のワンピースを買い与えた(Yの検察官に対する昭和六〇年八月四日供述調書)。

② 同月二八日ころ、妻に生活費二〇万円を渡した(Xの検察官に対する昭和六〇年七月二五日付供述調書)。

③ 同日、Yにスナック「○△」の運転資金として三〇万円を渡した(Yの検察官に対する昭和六〇年一〇月七日付供述調書((不同意部分を除く。)))。

④ 同月三〇日、株式会社○○ハウスに建築請負契約の前金として一〇万円を支払った(笠井博の司法警察員に対する供述調書)。

⑤ 同月三一日、株式会社××屋にマンション購入代金の一部として三〇〇万円を支払った(高橋茂夫の司法警察員に対する供述調書、押収してある天神町物件関係書類一冊((前同号の27)))。

被告人もこれらの支出があったこと自体を争っているわけではない。

そのほか、富士銀行浅草橋支店作成の捜査関係事項照会回答書によると、同月三〇日に、富士銀行中野支店のアップルハウス甲の口座に一七二万円の入金があったことが認められる。

なお、この入金の点については、被告人は、母親のZに借りたものである旨述べており、同女も当公判廷において、右入金の際に作成された収入伝票の筆跡が同女のものであることを理由に、この一七二万円は、同女が被告人に貸し付けたものであろうと述べ、被告人の弁解にそう証言をしているので検討を加えるに、確かに、Z作成の年賀葉書一枚(前同号の52)からすると、右収入伝票の筆跡は同女のものと類似していることが窺われるのであるが、同女の公判廷での証言や被告人の供述を総合しても、このころに、このような金銭の貸借があったと認めるに足りる具体的事実は全く窺われず、かえって、同女の証言によると、これまでにも何度か被告人に金銭を貸したことがあったが、それらはいずれも一〇万円単位の金額であったというのだから、もしこの一七二万円が母親から借りたものだというのなら、一七二万円もの貸借という両人の間では甚だ異例の事態が両人のいずれの記憶にも全く残っていないというのは何としても不自然というほかなく、加えて、Zの証言によると、一七二万円もの金員を被告人に貸したとしたら、よほど緊急の必要があったであろうのに、株式会社富士銀行中野支店作成の捜査関係事項照会回答書によると、右金員振込後の同口座からは、まとまった金員の引下ろしはなされておらず、かえって、その後の二週間位は常に常時残額が一〇〇万円ないしは二〇〇万円あったことが認められ、この点の矛盾も看過し得ないところである。結局、被告人の前記弁解は信用することができないというべきである。

これらの事実を総合すると、昭和五五年七月下旬のわずか数日の間に、被告人の手元に少なくとも五七二万円もの収入があったことになる。しかし、この出所につき被告人は何ら合理的な説明をしていないのである。

すなわち、被告人が公判廷において弁解するところは、要するに、具体的な金員の出所は記憶していないものの、当時そのくらいの金銭的余裕があったということである。さらに、弁護人は、××屋へは渋谷郵便局振出の同額の小切手により支払われており、その他の支払も、被告人が同年七月一八日豊栄信用金庫の当座預金から二五〇万円の払戻しを受けている事実からすれば、これをもって支払は可能であると主張する。しかし、前述のとおり、被告人は、昭和五五年七月二一日、金策に東奔西走したにもかかわらず、××屋に対し一〇〇〇万円の不渡りを出し、同月二八日には銀行取引停止処分を受けるに至っており(社団法人東京銀行協会手形信用部長井上俊雄作成の捜査関係事項照会回答書)、かような時期に被告人がいうような金銭的余裕があったとは到底考えられず、このことは、当時の被告人の経済状態は苦しかったという旨の被告人の身近の者の供述(第五回公判調書中の証人金森×男の供述部分、肥田×彦及びWの検察官に対する各供述調書)や、そのころ被告人が仕事の上で用いていた実際上唯一の銀行口座である富士銀行中野支店のアップルハウス甲の当座預金口座には、七月末の段階で残高は一〇万円足らずしかなく、当時被告人は一〇〇万円以上の現金を手元に置いておくというようなことはなかったこと(被告人の検察官に対する昭和六〇年八月三日付供述調書、株式会社富士銀行中野支店作成の捜査関係事項照会回答書)とも一致している。また、第一勧業銀行新宿支店作成の捜査関係事項照会回答書及び押収してある天神町物件関係書類一冊(前同号の27)によると、昭和五五年八月三一日被告人が××屋に支払った前記三〇〇万円は同月三〇日渋谷郵便局長振出の同額の小切手によるものであることが認められるが、被告人は公判廷では右小切手の入手経過や資金の出所について記憶がないと述べている。しかし、このような高額の小切手の入手経過についての記憶がないということは誠に不自然であり、当時の被告人の資金状態に照らすと、被告人がAから入手した金員を資金として郵便局長振出の小切手を作る以外に考えられない。次に、被告人の司法警察員に対する昭和六〇年八月一四日付及び検察官に対する同年一〇月六日付各供述調書、司法警察員の昭和六〇年九月三〇日付捜査報告書、豊栄信用組合代表理事作成の同年七月二七日付捜査関係事項照会回答書によれば、被告人は同五五年七月一八日△商興名義で同信用組合から三〇〇万円を経営資金として貸付けを受けていることが認められる。しかし、右貸付金(実際に入手した金員は二九七万〇一一一円)は、被告人がHの手形金一〇〇〇万円の肩代りをAに依頼した際、同人の要求により前借金元利二五五万円を同人に返済する資金に充てたことが認められ、その他、被告人は同月二四日にスナック「○△」の給料の資金として三五万円をYに渡していることが認められるのであるから、既にこの時期には全額使い果たしているというべきで、被告人が信用組合から貸付けを受けたのは、不渡りによる同組合の取引停止を回避するための資金とするのであればともかく、弁護人の主張するように、右貸付金を取引停止を受けた後まで所持していたとは到底考えられない。結局、被告人の前記弁解は合理的な根拠に基づくものではない。

2 被告人によるAの財産の処分

Aの失踪後、被告人は、以下に検討するとおり、Aの全財産の乗取りとも評しうるような財産処分行為をしている。

(一) □□に対する一五〇〇万円の貸付金の領得

前掲判示第二の事実に関する各証拠によると、判示第二記載のとおり、被告人は、昭和五五年七月末ころ、株式会社□□の取締役Bから、同人が同年五月一六日にA(貸主名義は株式会社A企画)から融資を受けた一五〇〇万円の返済と右融資の担保としてAに差し入れていた不動産登記済証等の返還方について相談を受けた際、右書類がAの貸金庫に入れられていて、被告人の自由にならないのに、右返済の申出に対して、右BにAが行方不明になっていることを隠し、同人に「Aさんが権利証を貸金庫に入れたまま台湾へ旅行に行ってしまって、二、三週間帰ってこないので権利証が返せない。保証書により移転登記をしてくれないか。」などと申し向けたうえ、同年八月九日ころ、株式会社A企画の有限会社□□に対する天引分の利息を差し引いた貸付金の弁済として額面六五〇万円の小切手二通を代理受領名下に取得したことが認められる。

この点、被告人は、その動機について、当該物件の転売を予定していたBから弁済の受領を強く要求されたことから仕方なく受け取った旨述べているが、権利証のないまま登記を移転するため、右Bに対する迷惑料や権利証なしで登記を移転する方法を教えてくれた知人に対する謝札、その他諸費用合計一八〇万円もの支出という全く不必要な出費までして、右BからAの行方を追及されることを避けようとしていること、前述のとおり、当時被告人はAの銀行印を所持し、その口座を事実上自己の管理下に置いていたにもかかわらず、前記小切手の取立てをアップルハウス甲の口座で行なっていること、その後、これを自己の不動産購入代金の支払に充てていること(以上につき、被告人の検察官に対する昭和六〇年一〇月三〇日付供述調書、株式会社富士銀行中野支店作成の昭和六〇年八月一三日付捜査関係事項照会回答書の写し)に照らし、到底信用できない。

(二) Aの田園調布の自宅の売却

前掲判示第六の事実に関する各証拠によると、判示第六記載のとおり、被告人は、Aの田園調布の自宅を昭和五六年二月ころにJ夫妻に売却していることが認められる。しかも、右各証拠並びに前掲判示第三及び第七の事実に関する各証拠によると、この売却に先立って、被告人は、福岡から帰った直後である同五五年七月二九日にはAの印鑑登録証を使用して同人の印鑑証明書をとり(被告人の当公判廷における供述、押収してある登記申請書類二式((前同号の18及び30)))、その後間もなく買主を探し始めていること(坂本×博((昭和六〇年八月二〇日付))及びJ((二通))の検察官に対する各供述調書)、同五五年八月二〇日ころには内容虚偽の「準消費貸借契約及び停止条件付代物弁済契約書」(押収してある昭和五五年九月二五日受付第四〇七六七号貸借権設定請求権仮登記申請書類一式((前同号の4)))を作成し、これを原因証書としたうえ、判示第三記載のとおり前記のAの印鑑証明書を用いて作成した同人名義の委任状を用いて、同月末ころには、司法書士に対し所有権移転請求権仮登記及び賃借権設定請求権仮登記をするよう依頼していること(被告人の検察官に対する昭和六〇年八月一八日付及び同月一九日付供述調書、Cの検察官に対する供述調書)、同五五年一〇月ころからは同所にYを住まわせるとともに、同所に置かれていたAの衣類等を知人に分け与えるなどして処分していること(第六回公判調書中の証人Yの供述部分、Y((昭和六〇年八月四日付))、W及び肥田×彦の検察官に対する各供述調書)、同五六年二月一九日被告人はAの代理人として右土地建物をJ夫妻に代金一億四〇〇〇万円で売り渡す旨の土地建物売買契約を締結し、右土地建物の登記済証が手元に存在しないため、保証書によって、判示第七記載のとおり、同年三月二三日J夫妻に所有権移転登記を経由し、更に、J夫妻から右代金に代るものとして引き取った同人ら所有の渋谷区初台の土地建物を被告人名義に所有権移転登記を経由していることが認められ、これらの事実によると、被告人は、Aが失踪して間もなくのころから田園調布のA宅の処分に着手していたといえるのである。

なお、被告人は、捜査段階から、Aの自宅を売却したのは、かねてから同人は税金を滞納し、田園調布の自宅も税務署に差し押さえられていたところ、Aの失踪後、税務署から公売にするとの連絡を受けたので、同人の利益を守るためあわててこれを売却した旨述べ、公判廷においては、更に進んで、従前から田園調布のA宅の売却を同人から依頼されていたと述べている。

しかしながら、これほどの大きな取引にもかかわらず、被告人の供述によっても、実際にAから売却の依頼があったと認めるに足るような条件等の具体的内容は明らかになっていないばかりか、売却に当たって被告人が売却の動機として説明するところの税金の滞納額やAの意向を確認するすべを全く講じていないのは不可解というほかなく、売買契約の内容も、買主の住宅を下取りしたうえ、残代金六五〇〇万円は一〇年間無利息とするなど買主自身が驚くほど買主に一方的に有利なものとなっており(Jの検察官に対する昭和六〇年八月二五日付供述調書)、受け取った代金は被告人自身の事業に費やしていること(被告人の検察官に対する昭和六〇年八月二三日付供述調書、司法警察員作成の同月二四日付捜査報告書)をも勘案すると、被告人の言うところは全く信用することができない。

(三) Aの定期預金の引下ろし

前掲判示第四の事実に関する各証拠によると、被告人は、判示第四記載のとおり、昭和五五年一〇月一五日に住友銀行田園調布支店でAの五〇〇万円の定期預金を引き下ろしたのを皮切りに、合計三回にわたり、同人ないしは同人の長男D名義の定期預金の元本及び利息合計二一七三万〇三三二円を引き下ろしていること、右金員を株式会社□□のBや株式会社ハウジングHのHその他数名に無担保で貸し付けたり、自己の用途に費消していることが認められる。

特に、右Bに対しては前後二回にわたり合計一〇〇〇万円を貸し付けているが、Aの預金を引き下ろし右Bに貸し付けるようになった経緯について、被告人は、捜査段階において、判示第二のとおり□□からの貸付金を受領した際、被告人がAの財産を乗っ取ろうとしていることにBが気付いたのではないかと思い、同人に対し後ろめたく感じていたところ、同人から借金を申し込まれ、これを断りにくかったことから、Aの預金を引き下ろすことを企図したと述べていること(被告人の検察官に対する昭和六〇年九月一日付供述調書)を併せ考えると、これらの預金の引下ろしが単にAの不在に乗じてなされたものにとどまらず、犯跡の隠蔽をも意図したものであることが窺われる。

(四) 宇田川町ビル関係等

前掲判示第九の事実に関する各証拠によると、被告人は、判示第九記載のとおり、昭和五九年三月二二日ころ、Aの所有にかかる宇田川町ビルにつき同人から被告人に所有権移転登記をしているわけであるが、これより先、既に昭和五五年七月末から、同ビルの一階及び地下一階の賃借人である株式会社東京サミットから賃料月七〇万円を受け取り、昭和五六年一二月一六日には、同社に同ビル二階及び三階を保証金三五〇〇万円、賃料月一〇万円で賃貸し、これらの賃料及び保証金を自己の用途に費消していたことが認められる(被告人の検察官に対する昭和六〇年八月三日付供述調書、張××及び姜○○の検察官に対する各供述調書)。

その他、Aが東京ビルディング株式会社から賃借していた東京ビルの三階部分をAから転借していた岡本○代及びQから七月末ないしは九月末以降被告人が各賃料を受領していたことも認められる(岡本○代の司法警察員に対する供述調書((不同意部分を除く。))、Qの検察官に対する昭和六〇年七月五日付供述調書)。

(五) 北陸銀行渋谷支店の定期預金に対する強制執行

前掲判示第五の事実に関する各証拠によると、被告人は、判示第五記載のとおり、Aが生前北陸銀行渋谷支店に対して有していた定期預金債権一二四〇万円(ただし、預金担保借入残額は七四〇万円)を第三者の名義で差し押さえるべく、昭和五五年一二月一九日、情を知らない公証人斎藤寿をして、HがAに六〇〇万円を貸し付けた旨の内容虚偽の金銭消費貸借契約につき強制執行認諾約款付き公正証書を作成させたうえ、右Hの名義で、同五六年三月一八日、右公正証書の謄本を用いて東京地方裁判所に前記定期預金債権(前記預金担保借入債務との相殺後の残額は五一二万七四三〇円)に対する差押命令を申し立て、同月二四日に差押命令を得、同年一〇月三〇日に五〇六万五〇九円の配当を受けていることが認められる(東京地方裁判所事務局長田村豊成、同川上博及び東京法務局民事行政部供託第一課長鹿志村芳晴作成の各捜査関係事項照会回答書)。

3 A失踪に対する被告人の態度

被告人は、Aの失踪後、何ら同人の行方を捜そうとしなかったばかりか、同人の行方につき「湯河原あたりに旅行に行っている。」、「アメリカに永住することになった。」、「台湾に行ってしまった。」などと種々の不自然な説明をし(第七回公判調書中の証人上島×敏の供述部分、Y((昭和六〇年八月四日付))及び肥田×彦の検察官に対する各供述調書)、同人とともに九州に行って以来Aの行方が知れなくなっていることを妻や愛人のY、Aの長男Dを預かっていた九州の高田○子にすら告げていなかったことが認められる(第一九回公判調書中の証人高田○子の供述部分、X((三通))及びY((二通、ただし、昭和六〇年一〇月七日付のうちの不同意部分を除く。))の検察官に対する各供述調書)。

被告人がAと従前から仕事の上のみならず私生活の面でも非常に親しく交際してきたことからすると、かかる態度は不自然というほかはなく、被告人がAの失踪の原因を知っており、ことさらにその事実を周囲の人間に隠そうとしていたと考えて初めて理解できるものである。

4 まとめ

以上の諸事実は、被告人が、Aを殺害したか、Aの死を知ってこれを隠し、その機会を積極的に利用していたことを意味するものである。

第四  被告人の自白及びその他の供述の検討

一  被告人の自白についての検討

被告人の供述は転々としているが、これらの供述には、A殺害を全面的に否認するものがある一方、自白やA殺害に関連した秘密の暴露あるいは不利益事実の承認等重要な事実を含むものもある。そこで、前記第三において認定した動かし難い客観的証拠と対比しながら各供述を詳細に検討し、いずれが真実であるか見極める必要がある。特に本件では、被告人は、捜査官に対し、五年前の昭和五五年七月二五日、Aの死体を太宰府付近の山中に放置してきたと述べ、その死体があると思われる場所を開示したので、その場所を捜査したところ、同年八月一三日にその場所から身元不明の死体が発見されていたこと、その死体がAであり、同人は何者かによって殺害されたうえ同所に遺棄されたことが判明した。このことはいわゆる秘密の暴露にあたり、少なくとも、被告人が殺害されたAの死体を右場所に遺棄したとの自らの経験を物語るものであり、このような経験は、被告人がAを殺害してその死体を右場所に遺棄するか、あるいは何者かによって殺害されたAの死体を右場所に遺棄する以外にその可能性はないというべきである。ところで、被告人は、この点について、①博多城山ホテルで死亡していたAを発見し、その死体を右場所に遺棄した、②右遺棄場所付近の小川でAを殺害し、右場所にその死体を遺棄した、及び③右ホテルでAを殺害し、その死体を右場所に遺棄した、との三通りの供述をしている。そこでまず、右秘密の暴露を手掛かりにし、その他の情況証拠に照らして被告人の供述の信用性について検討する。

1 博多城山ホテルでAの死体を発見し、その死体を遺棄したとの供述について

被告人は、本件死体遺棄現場付近の小川でAを殺害したとの自白をしたが、その日のうちに供述を変え、福岡の中洲ホテル(博多城山ホテル)で死んでいたAを発見し、Aの死体を隠匿してその財産を乗っ取ることを思い立ち、その死体を遺棄したと述べ、同ホテルからの死体搬出方法について詳細な供述をしている。確かに、被告人の供述するように、Aの財産乗っ取り目的でAの死体を遺棄したとすれば、その後被告人が実際にもAの財産を処分した行動と必ずしも矛盾するものではないのである。しかし、右の供述内容は以下のとおり重大な疑問がある。すなわち、

(一) 証人白石忠司の当公判廷における供述によると、取調べに当たった白石警部補が、A殺害を認めるに至った被告人に対して、もっと他にやったことはないかと聞くと、被告人はAの陰茎の切除について聞かれたものと思い、いきなり立ち上がり、白石警部補の取っていたメモを手で覆うようにして、「これは違うんです。川の中だけで行かしてもらえると思っていたのに。」と述べ、殺害の事実を否認し、福岡の中洲ホテルに行ったらAが死んでいたのでこれを遺棄したとの供述を始めたことが認められる。この変遷は、被告人がAの陰茎の切除について、何か認め難い事情があったことが窺われないでもないが、単にAの陰茎を切除した破廉恥な事実が公表されることを恐れたために否認に転じたとするにしては根拠に乏しく、むしろ、被告人の当公判廷における供述によると、被告人は当初は、自分の指示したところから死体が出たと聞かされ、大いに狼狽し頭が混乱したが、冷静に考えてみると、捜査側が被告人を追及する根拠は被告人がAの死体のある場所を知っていたということに過ぎないと分かり、これは死体遺棄の証拠に過ぎないので、ホテルで死体を発見したという話に切り替えたというのであり、この供述のように、被告人は自白に追い込まれたことに対する回避の方便として、ホテルで変死していたAの死体を発見したとの弁解をしたと見ることができる。実際にも、ホテルでAの死体を発見したとの供述は、その後すぐに徹回し、Aを右ホテルで殺害して、その死体を遺棄したとの自白、続いて、右ホテルにAと立ち寄った後、前記の山中の小川でAを殺害し、その死体を杉林の中に放置してきたとの被告人に決定的に不利な供述をし、再び否認に転じてからも、Aとは福岡の中洲でその日に別れたと述べ、二度とAの死体を発見し、その死体を遺棄したという供述をするようなことはしていない。公判廷でも否認供述を繰り返しているが、右ホテルでAの死体を発見し、その死体を遺棄した事実はないと述べている。

(二) 被告人は、七月一六日逮捕されて以来、判示第二ないし第九の事実について取調べを受け、いずれもAの承諾を得ることなく勝手に行なった犯行であることを認めながら、Aの行方や右犯行のために使用したAの印鑑類の入手経緯については後に話しますと言って供述を避けていたため、追及を受け、A殺害の嫌疑さえかけられていたのであるから、被告人の置かれている立場からすれば、真実Aが同ホテルで死亡していたのであれば、そのような供述を維持するのが当然であり、簡単にその供述を徹回し、A殺害の自白をするはずはないというべきである。

(三) 被告人が博多城山ホテルでAの死体を発見した経緯についての供述は既に述べたとおり、被告人は、Aから福岡の三井アーバンホテルに来るように言われ、昭和五五年七月二五日に飛行機で福岡に到着し、同ホテルに行ったところAが泊まっていなかったので、前に聞いていた同市内の中洲のホテルに行ってAの宿泊している客室に入ってみたところ、Aが何者かに殺害されているのを発見したというものである。しかし、被告人は、同日午前九時に博多駅前のレンタカー会社でレンタカーを借用している事実に照らすと、同日同時刻前に福岡に到着する飛行機便はないことから、被告人は前日二四日に福岡に行っていなければならない。してみると、被告人は二四日には福岡に行き、Aと会っていると推定され、被告人がAの死体を発見したとする経緯と矛盾する。

(四) Aが同ホテルで何者かに殺害されていたとの供述はいかにも唐突であるうえ、Aが被告人以外の者に殺害されたことを窺わせる情況は証拠上全くない。

右のとおりであって、被告人も公判廷でAがホテルで死亡しているのを発見してその死体を遺棄した事実はないと述べているように、この点に関する供述は被告人の一時的な弁解であって、根拠のないものであるというべきである。

2 被告人の自白について

被告人の自白は、殺害場所を太宰府付近の山中の本件死体遺棄場所近くの小川と述べているものと、福岡市内の中洲のホテル(博多城山ホテル)と述べているものがあり、両者は自ずから殺害方法や死体遺棄の方法を異にするのであるが、特に、殺害場所を右ホテルとした場合、犯行に供した凶器の特定、死体搬出の可能性についても検討を要するのである。そこでこの点をふまえて、被告人の自白の信用性を判断する。

(一) 本件死体遺棄現場付近の小川でAを殺害したとの自白について

被告人は、八月二九日になって、初めてAを殺害した事実を認め、犯行現場は、本件死体遺棄現場付近の小川であると供述したものの、この自白はすぐに徹回した。しかし、九月二日には再び同旨の供述をするとともに、犯行に至る経緯、犯行状況及び犯行後の死体遺棄について詳しい供述をしている。しかし、この供述には多くの疑問がある。すなわち、

(1) 被告人は本件犯行現場に至る前に、Aとともに博多城山ホテルに行き、同人の依頼で同人が宿泊したという客室を見に行ったところ、ベッドに多量の血が付着しているのを発見し、Aが女性と問題を起こしたものと思い、ベッドの血を処理してから、再びAとともにレンタカーで太宰府付近をドライブし、本件犯行現場に至ったというのである。しかし、これだけの血液がベッドに付着していれば、容易ならざる事態が発生したはずであるのに、その原因や相手の処置について何一つ明らかにしていない。

(2) Aの死体は全裸で、両足首及び両足の親指がそれぞれビニール紐で縛られ、陰茎は鋭利な刃物で切除された状態で発見されている。このような死体の状態からすると、Aの死体は緊縛されてどこか他所から運ばれてきたものと推認されるのに、この点について、被告人は、殺害した後、近くの杉林の中に放置し、一旦はその場を離れたが、死体を発見されるのを恐れ、再び現場に戻り、死体を搬出するため付近に捨てられていたごみの中からビニール紐を拾って死体を緊縛したものの、重くて運べなかったのでそこに放置することにしたと述べている。しかし、現場は採石場が近くにあるとはいえ山中の杉木立の茂った林の中であるから、わざわざ死体を緊縛して運ばなくても適当な遺棄方法ないし遺棄場所があったはずである。また、Aの死体を緊縛したビニール紐の一部が切り解かれていることについて、その場所に放置することにした際、Aの死体が緊縛されているのを見て残酷に思いビニール紐を切ったと言いながら、一方で、Aの陰茎を見て憎しみから所持していた登山ナイフで陰茎を切り取った、と全く矛盾する供述をしている。さらに、被告人が当日登山ナイフを所持していたというのも誠に不自然である。要するにこれらの供述は、発見された死体の状況と合せるための説明をしたとする以外にはない。

(3) 被告人は、犯行の動機について、Aと小川で水遊びをしていた際、Aがもう一日付き合えといってきたのに対し、今日帰ると返事したところ、突然、被告人がAから盗んで持っていたセカンドバッグを返せと言って被告人に襲い掛ってきたので、川底にあった石でAの頭部を殴打して殺害したというのである。しかし、このような動機は場所的にも、またその経緯からも唐突そのものであって、到底信用できない。

以上のとおり、A殺害の場所を死体遺棄場所現場付近の小川とする右自白は、犯行に至る経緯、犯行の動機、原因及び死体遺棄の状況についての供述が不自然、不合理であるばかりでなく、客観的事実とも符合しないうえ、後に検討するホテルでAを殺害したとする自白と対比しても誠に信用性の低いものであり、真実を述べているとは到底認められない。

(二) 博多城山ホテルでAを殺害したとの自白について

(1) 自白に至る経緯

被告人は、太宰府付近の山中の小川でAを殺害したと供述した後、すぐこれを変更して、中洲のホテルでAが死んでいるのを発見し、その死体を遺棄したと述べていたわけであるが、第七回公判調書中証人佐々木善三の供述部分によると、九月二日、検察官の取調べの際、検察官に「君もずっと中にばかりいて、気分的にもふさいでいるだろうから、まあ、外を見たらどうだ。」と言われて、外の景色を見たところ、涙をぽろぽろと流した後、落ち着いた態度でAを中洲のホテルで殺害した旨供述したことが認められるが、このような供述態度や、それまで被告人が弁解していた内容が、ホテルでAの死体をたまたま発見したという、誰が考えても極めて不自然なものであったことからすると、その不自然さを取調官に追及され、遂に自白に至ったと考えられ、特に誘導や強要の介入が疑われるものではない(なお、この際、被告人は、凶器は花瓶のようなものと述べていたわけであるが、これは、後に検討する。)。

被告人は、その後、犯行場所について、再び、太宰府付近の河原であると述べたこともあるが、その理由として、被告人が公判廷で述べるところは、要するに、佐々木検事は河原での犯行を確信していたが、警察官からは周囲の状況が被告人の供述と食い違っており、河原での殺害はあり得ないと聞いたことから、かえって、捜査を混乱させるために、佐々木検事に迎合し犯行場所を河原と述べてきたということであり、犯人の心理として合理的に理解できるところである。その後、ホテルの裏付捜査が進展し、証拠が収集されるにつれ、被告人はホテルで殺したという供述に戻っている。

してみると、博多城山ホテルの客室でAを殺害し、その死体を遺棄したとの被告人の自白は、自然の経過により、当然なされるべくしてなされた信頼性の高いものであるが、更に、右供述については、①犯行現場が同ホテル客室であること、②犯行の態様、特に凶器の存在、③死体の緊縛、梱包及び右客室からの搬出の可能性等が解明され、具体性のある現実的なものか否かが検討されなければならない。

(2) 犯行現場

証人高橋弘及び同白石忠司の当公判廷のおける各供述、第三回公判調書中の証人高橋弘、第七回公判調書中の証人佐々木善三及び第一七回公判調書中の証人風間功の各供述部分、証人矢野トメ子、同川畑千代子及び同栗原和子に対する当裁判所の各尋問調書、証人矢野トメ子及び同砥綿幸代に対する受命裁判官の各尋問調書、矢野トメ子作成の図面三葉、川畑千代子作成の図面一葉、被告人作成の昭和六〇年八月二三日付図面並びに押収してある手帳一冊(前同号の25)を総合すると、被告人は八月二三日の佐々木検事の取調べの際、Aが昭和五五年七月二四日に宿泊していた場所として福岡の中洲ホテルの場所を図面に書いていたが、更に同六〇年八月二九日に、白石警部補に対し、同五五年七月二五日に同ホテルを訪ねて行ったところ、六階の客室でAが死んでいるのを発見したとの供述をし、同ホテルの位置、外観、Aが死亡していたとする客室の位置及び内部の状況について詳しく説明するとともに、同客室はツインベッドが置かれ、奥のベッドでAが死亡していて、枕元に多量の血が付いて、血がベッドマットにまで達していたので、Aの死体をダンボール箱に詰めた際、ちょうど廊下に止めてあった清掃作業員の手押車からシーツを持ってきて敷き、「よごしてすみません」という趣旨のことを書いたメモと五〇〇〇円を隣のベッドの足元に置いて部屋を出たと述べたので、捜査官は被告人の供述を基にして、九月一日警察官を福岡に派遣し、ホテルの割り出しを行なったところ、同月二日になって、それが博多城山ホテルであることが判明した。さらに、翌三日には、同五五年七月当時同ホテルの客室の清掃を請け負っていた株式会社シンコーから同ホテルに派遣されていた清掃員数名から事情を聴取した結果次の事実が判明した。すなわち、昭和五五年七月下旬ころ右清掃会社から派遣された矢野トメ子が同ホテル四一四号室を午後二時ころ清掃した際、二台のベッドのうち窓側のベッドの枕元付近に多量の血液が付着し、部屋のシーツ、毛布、ベッドパット及び枕が紛失していたこと、入り口の方のベッドの足元付近に、「掃除とか洗濯をしてください、その代にしてください」という趣旨のことが書いてあったメモと五千円札が置いてあったこと、同月の清掃の割当状況からすると、矢野トメ子は四階の客室の清掃を担当していたことになるが、当日午前一〇時三〇分ないし四〇分ころ四一四号室を掃除しようとしたところ、人が在室中であったので他の客室を掃除していたところ、同女の持っていた紙袋を下さいといってきた男性がいて、その男性は四一四号室に入ろうとしたので、「アウトされるのでしょうか。」と尋ねたところ、一人が病気で病院に行っているのでもうしばらくいさせて下さいと答えたこと、が判明した。

右は、被告人の供述に基づいて捜査官が捜査した結果、被告人の供述どおりの事実が客観的に存在していたことを意味するもので、いわゆる秘密の暴露に当たり、その信用性は極めて高い。そして、被告人が同五五年七月下旬に福岡にいたのは前記のとおり同月二四、二五日の両日であって、それ以外の日にちではあり得ないことは明らかであるから、被告人は同月二五日午前中には同ホテル四一四号室に所在し、同室ではベッドマットにまで及ぶ多量の血液が付着し、シーツやベッドパット、枕等が搬出されていたことからすると、同室で多量の出血を伴う非常の事態が発生していたことが認められる。この出血を伴う事態の発生は、同室を掃除した同日午後二時ころまではホテル関係者には知らされていなかったことからすると、宿泊客の病気や事故によるものとは考えられず、犯罪によるものと考えるほかなく、また、シーツ等の搬出はその発覚を防止するためのものと推測されるところである。してみると、Aを同ホテルの客室で殺害したとの被告人の自白は、確かな裏付けが存在するといわなければならない。

(3) 犯行態様

前記第一の二で検討したとおり、Aの死因は、棒状及び平面状の作用面を有するある程度の重量をもった硬固な鈍体で、後頭部を複数回にわたって力一杯殴打されたことによる頭蓋内損傷と認められるわけであるが、被告人は、博多城山ホテルでのA殺害を認める供述をした際においても、凶器については、花瓶のようなものと述べたり、灰皿と述べたりしており、変遷の見られるところであり、弁護人は、この点をとらえて、被告人の自白の信用性を弾劾するとともに、凶器が特定できない以上本件の殺人を認定できないと主張している。

そこでまず、死体の状況から判断される凶器の形状について検討すると、証人渡辺博司の当公判廷における供述、証人木村康に対する受命裁判官の尋問調書、渡辺博司作成の鑑定書及び同補充説明書並びに木村康作成の鑑定書によると、本件では、死体の頭皮が腐敗消滅しているため、その形状を具体的には特定できないが、最も可能性の高いものとしては棒状及び平面状の作用面を有するある程度の重量をもった硬固な鈍体が考えられるとのことである。

一方、被告人は、ホテル内でのA殺害を認めた際、凶器としては、花瓶のようなものないしは直径二〇センチメートルくらいの灰皿であると述べている。そこでまず、灰皿であるという被告人の供述を検討するに、証人矢野トメ子に対する受命裁判官の尋問調書によると、当時四一四号室には、他の部屋と異なり、被告人の言うとおり直径二〇センチメートルくらいの大きな灰皿が置いてあったこと、その形態は、上面は平たくてタバコ置きの窪みは四つくらいしかなく、側面は、上方が一ないし二センチメートルのつるつるした帯のようになっており、下方が底に向かってややすぼむようにしてほりの深い柄があったことが認められる。このような灰皿を頭部殴打の凶器として用いる方法としては、一般的には、両手で灰皿の上面の両端をつかんでその底部で殴打する方法と、片手でその側面をつかんで反対側の側面で殴打する方法が考えられるわけであるが、前者の場合、凶器の作用面は平面状となり、後者の場合は棒状となり、両方の方法で殴ったと考えたならば、これは、正しく前述の死体の状況から判断される凶器の形状と符合するわけであって、このことに、昭和五五年七月二五日以降四一四号室からこの大きな灰皿がなくなっていたこと(前記矢野証言)を併せ考えれば、凶器はこの灰皿であった可能性が高いと言うことができる。これに対し、被告人のいう花瓶のようなものは、証人矢野トメ子に対する受命裁判官の尋問調書及び同人作成の昭和六〇年九月九日付の図面によると、確かに、当時、博多城山ホテル四一四号室のベッドの枕元に酒瓶が置いてあったことが認められ、これをもって被告人のいう花瓶のようなものと考えることもできなくはないわけであるが、首のところが細くなっているというその形態からすると、これを凶器として用いて頭部を強打した場合、容易に壊われてしまうのではないかと考えられること、これが凶器であるとしたら犯人が凶器をそのまま部屋に残していったこととなり、甚だ不自然であるところから、酒瓶が凶器であるとは考えにくい。

このように、被告人が凶器として供述した直径二〇センチメートルくらいの灰皿が、犯行現場の状況や死体の状態から推認して、凶器としての可能性が十分認められるものであるということができ、そうである以上、被告人の自白の信用性の判断にも本件殺人の認定にも何ら問題をきたさないといえるのである。ただ、前述のとおり、灰皿が凶器であると供述したときの被告人の自白の内容は甚だ具体性を欠くため、骨折の形態からすると、成傷器となりうるもので当時ホテルの客室にあったと認められるものは、灰皿ばかりではなく、コーラ瓶等も認められ、更に、鈍器であれば可能であるから、外からの凶器の持込みの可能性も否定し得ない以上、凶器を灰皿と断定することはできず、罪となるべき事実の認定は単にこれを鈍器とするにとどめた。

(4) 死体の緊縛

第七回及び第八回公判調書中の証人佐々木善三の各供述部分並びに第三回及び第四回公判調書中の証人高橋弘の各供述部分によれば、被告人は、八月二九日の取調べの際、中洲のホテルで死んでいたAを発見してこれを死体遺棄現場まで運んだという供述をした中で、運搬のための死体緊縛方法として、下腿部と大腿部がくっつくように両膝の回りをビニール紐で縛ったうえで両手を膝の前で交差させてビニール紐で巻き、更に、頭を低くするために、両足の親指あたりにビニール紐を引っ掛け、それを首の後ろに回してぐいぐい縛ったと述べ、九月一日以降、犯行場所を博多城山ホテルの客室内であると供述を変遷させつつも、死体をホテルから搬出するための緊縛、梱包の方法に関する供述はそのまま維持していたこと、死体を遺棄する際に死体の陰茎をナイフで切り取ったとの供述もまた同様に維持していたことが認められ、被告人自身このような供述をしたこと自体は認めている。

一方、司法警察員作成の昭和五五年八月一七日付実況見分調書、同月二二日付写真撮影報告書及び昭和六二年九月二日付捜査報告書並びに牧角三郎作成の鑑定書によれば、Aの死体は、発見時に、両足首及び両足の親指がビニール紐で結ばれており、膝を「く」の字型に曲げたうえ、開脚していて(このことは、死後死体が膨満し、自然に両下肢が開くこととも一致する。)右膝の周囲に紐で縛ったような円形の圧迫痕らしきものが認められ、その右腰部の下から同種のビニール紐が発見されたこと、死後陰茎が鋭利な刃物で切り取られていたことが認められるが、このことは、正に被告人の前記供述に合致するところである。そして、証人白石忠司及び同高橋弘の当公判廷における各供述、司法警察員作成の昭和六〇年一一月七日付捜査報告書(不同意部分を除く。)並びに押収してあるビデオテープ一巻(前同号の42)によれば、被告人の供述する緊縛方法による人体の緊縛は一人で十分可能である(死後硬直の点は後述する。)ことが認められる。

この点、被告人は、公判廷においては、捜査段階において右のように供述したことはこれを認めつつも、前記のような死体の状況は取調時の取調官の態度ないしは示唆によって知るに至ったものであり、自らの記憶に基づいて積極的に述べたものではないと供述している。

そこで検討するに、前記佐々木証言、高橋証言及び白石証言によれば、八月二九日の段階においては、既に捜査側が前述のようなAの死体の状況を大旨把握していたということは認められるが、当日被告人の取調べに当たった証人白石忠司は、当公判廷において、被告人が前記のような供述をした際、捜査側としては、あらかじめ打ち合わせのうえ、既に入手していたAの死体の状況についての知識、情報は、その重要性に鑑み、これを被告人に伏せたまま取調べに当たっていたのであって、被告人にこれを示唆するようなことは全くなかったと明確に述べており、このような取調べは捜査における実務として当然な方法であると思われるところである。しかも、捜査官は被告人の供述を基に人体のダンボール箱詰め込み実験をしているが、その際、あくまでも被告人の供述を重視し、例えば足首における緊縛のように、客観的には明白な事実であっても被告人が供述していない以上、これをもって被告人を追及することなく、むしろこれを度外視して実験を遂行しているのであって、このような実験等から窺われる捜査方針とも、前記のような被告人に対する取調方法は符合している。これに対して被告人の前記弁解は、当日の具体的な取調状況、つまり、死体遺棄現場付近の小川でのA殺害を一旦は認める供述をした後に供述を前述のように変遷させたところ、全く信じてもらえず、弁解をじっくりとは聞いてもらえなかったといった状況(被告人の当公判廷における供述)からすると、このような弁解をしていた際に被告人がいうように取調官の態度等から極めて具体的かつ詳細に死体緊縛状態を探り出すなどということはおよそ考えにくく、極めて不自然であるといえるばかりか、被告人の検察官に対する昭和六〇年一〇月六日付供述調書によると、被告人は捜査段階においては、いわゆるSM雑誌で見て知っていた人体の箱詰めの方法を参考にして想像で説明したものである旨の別の弁解をしていたことが認められ、もし、真相が被告人が公判廷で供述するとおりであれば、何故にこのような説明をしていたのか理解に苦しむ。以上の諸点に鑑みるならば、被告人の弁解は到底信用できないといわざるを得ない。

(5) 死体の梱包及び撤出の可能性

被告人が前記ホテル客室でAを殺害したとしても、同ホテルから死体遺棄現場まで被告人がAの死体を搬送し得たことが立証されなければならない。すなわち、ダンボール箱を入手したうえ、死後硬直した死体を小さく緊縛梱包し、これをレンタカーの後部座席に詰め込むことが可能であるか、このような大きなダンボール箱をホテルのフロント前を通過して運び出すことが心理的に可能であるかなどのいくつかの問題点がある。そこで以下に、個別に検討を加えておく。

ア ダンボール箱入手の可能性

本件の被告人によるA殺害を認定するには、弁護人の指摘するように、死体をその中に梱包でき、かつ、梱包後これをレンタカーの後部座席に積載しうるようなダンボール箱が入手可能であることが前提となるので、まず、右の二要件を満たすダンボール箱の大きさについてみると、当裁判所のダンボール箱の車両積込みについての検証調書によると、規格五才(長さ54.5、幅50.8、高さ53.5。単位はセンチメートル。以下同じ)、規格No30(長さ54.5、幅40.9、高さ47.0)及び押収してあるダンボール箱のうち長さ及び幅各四五センチメートル、高さ五二センチメートル(前同号の54)はこれらの要件を満たし、これらとほぼ同じ様な大きさのダンボール箱であればその中に死体を梱包し、かつ、レンタカーの後部座席に積載できると認められる。

そこで、このようなダンボール箱を当時現地で被告人が入手できたかどうかを検討するに、被告人の捜査段階での供述によると、博多城山ホテル近くの荒物屋でビニール紐やガムテープと一緒に購入したということであるところ(証人白石忠司の当公判廷における供述)、証人高橋弘及び同白石忠司の当公判廷における各供述並びに証人西島健夫及び同杉光節馬に対する当裁判所の各尋問調書によれば、同ホテルの近辺で荒物を扱っている西島船具金物店、中牟田船具店では、船具や金物のほか、ビニール紐やガムテープも扱っており、客の求めがあれば、仕入れた商品が入っていた前記のような大きさのダンボール箱を分け与えていたこと、この付近には他にも荒物屋が二、三軒はあることが認められるところ、特に、西島船具金物店は、被告人がダンボール箱等を入手したと説明する荒物屋と、商品の陣列の仕方、間口の様子、面している道路の広さ等の点において酷似していることが認められる。

これらの事実に徴すると、Aの死体を梱包するためにはある程度の大きさが必要である一方、大き過ぎると車に積込むことが不可能となり、かなり限られた形のダンボール箱でなければならないが、被告人としては、運搬する車は自己の借りたレンタカーであるから、積載できるダンボール箱のおよその大きさは知り得たであろうし、Aの身体の大きさもまた同様であるから、梱包すべきダンボール箱もその入手先を具体的に特定して認めることはできないものの、少なくとも前述のような要件を満たすダンボール箱を被告人が入手できたことが認められる。

イ 死後硬直との関係

弁護人は、死後硬直を理由に、死体を前記のようなダンボール箱に梱包することは不可能であると主張する。

しかしながら、被告人がレンタカーを借りたのが午前九時であり、このときまでにAは死亡していたと推定され、死体を搬出したのは後記のとおり午前一二時ころであると認められるが、二四日から二五日の午前九時までのどの時点でAが判示のような攻撃を受け、その結果死亡したかは確定できないものの、Aの死とその死体の梱包との間に長時間が介在しなければならない特殊な事情があったとは証拠上全く窺われないこと、仮に死後硬直の可能性を考慮するとしても、その完成には相当長時間の経過を要し、死後四時間程度であれば被告人の述べる方法で十分可能であり、また、あらかじめ下肢を曲げておけば、かなりの時間経過後でも可能であること、さらに死後七、八時間たった伸展状態の死体であっても、股関節から膝関節へと曲げていけば緊縛梱包が不可能ではないこと(証人上野正彦の当公判廷における供述)からして、弁護人の主張は到底採用できない。

ウ 重量との関係

弁護人は、死体を梱包したダンボール箱はかなり重量を有し、これを一人でレンタカーの後部座席に積載するのは殆ど不可能であると主張する。しかし、Aの体重は、同人の身長、肥満度等からすると六五キロ前後であったと推定されるところ、当裁判所のダンボール箱の車両積込みについて検証調書、司法警察員作成の昭和六〇年一〇月七日付捜査報告書(不同意部分を除く。)及び押収してあるビデオテープ一巻(ダンボール箱の車両積込実験に関するもの、前同号の43)によると、63.5ないしは七〇キログラムの砂袋等を詰めたダンボール箱を被告人が借りたレンタカーと同じ大きさの後部座席をもつ車両に一人で積み込むことは可能であると認められ、右主張は採用できない。なお、当裁判所による検証の際、七〇キログラムの砂袋を詰めたダンボール箱を積み込むときに、相当程度の困難を伴ったが、これは、砂袋の重心が著しく低かったことによるものであり、右の判断に影響を及ぼすものではない。

(6) 本件犯行当時ころ博多城山ホテルのロビーで大きなダンボール箱を重そうに運んでいる不審な人物がいた事実

証人今永幹雄の当公判廷における供述、証人砥綿幸代に対する受命裁判官の尋問調書及び同人の司法警察員に対する昭和六二年九月一七日付供述調書によると、同五五年七月下旬ころ、当時博多城山ホテルのフロント主任をしていた今永幹雄が昼ころの時間帯に、同ホテル玄関を入ったとき、同所のフロントの前あたりで、台車なしで重そうなダンボール箱を下の方を引っ張って運び出している男を見て「手伝いましょうか。」と声をかけたところ、その男は怯えた様子で、手を震わせながら、顔も上げずに「結構です。」と言って断わり、そのまま運んで行ったことが認められる。

この事実は、ホテルでAを殺害した後、ダンボール箱でAの死体を梱包して、これを途中フロントの前を通って、引っ張るようにして運んで行ったという被告人の供述と正しく一致するところである。確かに、白昼死体をダンボール箱に詰めてホテルから運び出すということは異常であるが、ホテル客室で殺人を犯した犯人としては、死体を隠蔽するためには、これをホテルから搬出するほかなく、ダンボール箱詰にして運び出すことも考え付く一つの方法であって、あり得ないことではなく、右今永証言は正に現実に存在したことの裏付けとして重要な意味を持つものである。

(7) レンタカー借受けの事実

前記第三の二1(一)記載のとおり、被告人が昭和五五年七月二五日午前九時ころに、福岡市の博多駅前にある株式会社日産観光サービス博多駅前営業所においてレンタカー一台を借りたことが認められるが、この事実は、ホテルでAを殺害した後、レンタカーで同人の死体をホテルから太宰府の山中まで運んだという被告人の自白と一致するものである。

また、証人立石輝雄に対する当裁判所の尋問調書、押収してある売上伝票控(番号四三〇九一一のもの、前同号の18)売上伝票控の写し(番号四三〇九三五のもの)及び検察官作成の昭和六一年六月四日付捜査報告書によると、右レンタカーで、死体を搬送したと考えることは、時間的にも距離的にも矛盾をきたさないことが認められる。

(8) 動機

A殺害の原因、動機については、被告人は、昭和五五年七月二四日に田園調布のA宅で同人の隙をみて盗んだ印鑑類等の入ったセカンドバッグを、福岡に行ったAから福岡に持ってくるように言われ、翌二五日朝福岡に行き同市内の博多城山ホテルのAの宿泊している客室に入ったところ、その返還を同人から求められたことからもみ合いの喧嘩となり、Aを殺害するに至ったという。

しかし、右供述は、前記第三の三記載のような右バッグについてのAの保管状況からすると、被告人があらかじめこれを盗み出して抜き取っていたのに、Aがこれに気づかないまま九州まで行くということは普通では考えられない事態であるばかりか、わざわざセカンドバッグを返すために九州まで赴きながら、その返還をめぐって殺人に至るほどの争いになったというのも不自然の感を免れない。被告人は、捜査段階では、Aの印鑑類等を所持し、これを用いて同人の財産を処分していたことについて、Aの行方や右印鑑類等の入手経緯について追及を受けており、供述次第では強盗殺人罪に問われかねない立場にあったことを考えると、被告人が捜査官に真の動機を述べなかったとしても犯人の心理として十分理解できるところである。

そこで、真の動機については、客観的事実から内心の状態を推認するほかはないが、前記第三の四のとおり被告人がA殺害を企図しても何ら不合理でない状況が存したのみならず、被告人がAを殺害した動機、経緯の具体的内容を窺わせる状況として次のような事実を指摘することができる。すなわち、

① 被告人がA殺害に至った最も重要な原因の一つは、前述のとおり、被告人の不渡りの原因やその事後処理をめぐる被告人とAとの金銭的、感情的対立にあったと認められ、不渡りの原因となったAの約束不履行と本件犯行との間には、既に数日が経過しているが、この間、被告人は、Aに対して約束不履行を責め、その代償を要求していたことは容易に推認される。

② Aの死因となった受傷の部位、程度、形態(前記第一の二)からすると、被告人がAの背後からその後頭部を強打したことが窺われ、また、その犯行現場がホテル内という半ば公衆的な場所であるにもかかわらず、犯行の遂行から死体の搬出に至るまで周囲にこのような異変を気づかれていないことをも考え併せると、被告人がAに対して加えた攻撃は、両者の喧嘩闘争中になされたようなものではなく、Aの隙を襲って加えられた一方的なものであったと強く窺われる。

③ 前記第三の五記載のとおり、被告人は、A殺害の直後から同人の印鑑類等を所持し、これを使用してAの財産の処分に着手している。

以上の事実からすると、本件犯行は、当初からAの財産を乗っ取る目的でなされたのではないかと疑われるところであるが、犯行場所がホテルの一室という、犯行後の死体の処理等に困難を伴うことが当然予想される場所であること、殺害の方法が鈍器による殴打であって、Aを殺害する確実な方法とは考えられないことからすると、必ずしも周到な計画の下に遂行されたとまではいえず、人が争った形跡がないことや後頭部の殴打による殺害からは、喧嘩闘争の最中に生じた偶発的殺害とも考え難い。そうである以上、被告人に有利に考え、殺意が本件犯行場所に至ってから生じたものととらえるほかないが、しかし、前記の諸事情を総合すると、本件犯行は、少なくとも、被告人の不渡りに端を発した両者の財産的、感情的対立が平行線をたどり、行き着くところまで行き着いた末に、事態を一挙に解決すべく、被告人により一方的に敢行されたものであるということができる。

二  被告人のその他の供述の検討

1 死体遺棄場所付近の小川の中でAが転倒死したとの供述について

被告人は、昭和六〇年八月二三日、二四日、Aの死体があると思われる場所を開示した際、Aは死体遺棄場所付近の小川で転倒し、川底の石に頭を打ち付けて重傷を負ったので、Aを川から引き上げ、杉林の中に放置してきた、Aは死んだと思う、との供述をしている。

既に認定したとおり、Aの死因は後頭部を数回殴打されたことによる頭蓋骨骨折を伴う打撲傷に基づく頭蓋内損傷によるもので、右死体の頭部の骨折の形態からすると、転倒による事故死でないことは明らかであり、その他、死体の緊縛、陰茎の切除等の事実を併せ考えると、小川で事故死したとの被告人の供述は客観的な事実と著しく相違し、到底信用できない。

2 昭和五五年七月二五日の行動についての被告人の弁解について

被告人は、最終的には、同日の行動について、概略、「七月二四日に、Aを羽田まで見送った際、翌日嬉野まで行ってAの長男Dの荷物をとりに行くのを手伝ってくれと頼まれていたので、七月二五日の朝、飛行機で福岡に行った。Aと落ち合ったあと同人と一緒に、博多駅前に行って、レンタカーを借りた。時刻は、午前一〇時半ころだった。そのあと、Aの指示で、中洲のホテルに立ち寄った。Aの態度からすると、昨晩、ホテルの客室内で水商売の女性か誰かを殴り付けて、けがをさせてしまった様子であったが、Aのいう部屋に一人で行ってみたところ、二台のベッドのうち窓側のベッドの頭のほうにかなりの血がついており、入り口側のベッドの足元には謝罪のメモと五〇〇〇円が置いてあった。室内を一瞥したあとすぐに車に戻り、Aの指示で運転した。九州は始めての土地だったので、ただAの指示に従って運転しただけであって、どこをどう走ったのか全く覚えていない。途中一回ドライブインで食事をとったのと、三〇分程度太宰府あたりのどこかを観光したのを除いてはずっと車を走らせていた。Aの予定は嬉野のDのところに行くことにあるのではないと分かり、中洲に戻った。これが午後五時ころだった。このとき、Aに言われて嬉野の高田に電話を入れて、今日は行けなくなった旨連絡した。そのあとAに強く勧められるままに、夕食を一緒にとり、更にスナックにも行った。八時前ころAと別れ、レンタカーを返却し、新幹線で広島まで行き、その夜は、広島のステーションホテルに泊まった。」と述べへいる。

しかしながら、右弁解は、被告人がAの死体の遺棄されていた場所を知っている事実と矛盾する。被告人は、太宰府付近の山中から身元不明死体が発見されたとの新聞記事により、この死体がAではないかと思って、その場所を示したにすぎないと述べているが、これが真実とは認められないことは既に述べたとおりであるから、この点で被告人の前記弁解は否定されるべきである。

また、第一九回公判調書中の証人高田×子の供述部分によっても、高田がこのころAあるいは被告人からDを迎えに行くという話を聞いていなかったことが認められ、被告人の弁解は、その前提に多大の疑問がもたれるところ、いくら初めての土地とはいえ、目的地の方角も確認しないまま、運転免許すら持たない者の指示で、五、六時間もの間、ただぐるぐる運転していたという供述内容自体極めて不自然というほかない。

さらに、被告人は、昭和五五年七月二五日夕方、福岡市内の中洲のスナックでAと別れ、レンタカーを返却する手続をとったところ、東京行きの飛行機も新幹線も既になくなっていたので、とりあえず、広島行きの新幹線に乗って広島まで出て、駅前のステーションホテルで一泊し、翌朝、新幹線で東京に戻ったというものである。そして、広島行きの新幹線に乗った時点で、Aのボストンバッグを持っていたこと、これを新幹線の中に遺留してきたことについても、その入手経緯や、遺留に至る事情について多少の変遷はあるものの、終始認めているところである(被告人の検察官に対する昭和六〇年一〇月六日付供述調書、第一一回及び第一七回各公判調書中の被告人の各供述部分)。これらのことは、被告人の妻が、昭和五五年七月二八日ころ、自宅で、被告人の所持品を入れたビニール袋の中に、「広島」と文字の入った国鉄の乗車券のようなものやホテルの領収書などが入っているのを見かけたということ(Xの検察官に対する昭和六〇年八月二八日付供述調書)や、Aのバッグを新幹線の中に遺留してきたという被告人の供述に基づいて捜査したところ、その内容に合致する遺留物が存在したことが確認されたこととも符合するところであり、被告人の前記供述は大旨真実であると認められる。

このように、被告人は、Aの荷物を持ったまま、広島には何の用事もなく同所止りの新幹線に乗り、その際、車内にAの荷物を遺留し、広島ではただ駅前のホテルで一泊しただけで翌朝早々に新幹線で東京に戻ったという、甚だ不自然な行動をとっているわけであり、被告人とAとの間に何か尋常ならざる事態が発生したと考えざるを得ないのである。この点について被告人は、公判廷において種々弁解しているが、到底納得できるものではない。

以上のとおりであって、被告人の昭和五五年七月二五日の行動の弁解は真実に基づくものとは到底認められない。

三  まとめ

このように、被告人が、昭和五五年七月二五日、福岡市内の博多城山ホテル四一四号室において、単独で、Aに対し殺意をもって鈍器(花瓶又は灰皿)で同人の頭部を数回殴打して殺害し、その死体をビニール紐で緊縛し、ダンボール箱に詰め、同ホテルから搬出し、レンタカーで本件死体遺棄場所まで運び、遺棄した、との自白は、Aの死体遺棄場所、遺棄状況並びに犯行場所であるホテルの存在及びホテル客室内の状況等既に明らかになっている客観的証拠により裏付けられ、その他の情況証拠とも符合する信用性の高いものである。確かに、死体をダンボール箱に詰めてホテル客室から搬出し、レンタカーに積んで運ぶということは奇異に感じるが、ホテル客室で人を殺害し、切羽詰まった状況にある犯人としては、その犯行を隠蔽するには死体を客室から運び出し遺棄するほかはなく、その場合、ダンボール箱詰めの方法は困難が伴うにしても考え付く一つの方法であってあり得ないことではない。しかも、本件ではその方法が可能、かつ、現実的であって、右自白の信用性を何ら否定するものではない。これに対し、被告人がAの死体の遺棄場所を知っていることに関連して最も問題となるホテルで死亡しているAの死体を発見し、遺棄したとの供述は、一時の弁解として述べられたものと認められ、供述自体も不自然であるうえ、Aが被告人以外の者に殺害されたことを窺わせる証拠は皆無であり、被告人自身この供述をすぐに徹回している。その他の供述は、いずれも重要な部分で客観的事実と矛盾し、内容自体も不自然、不合理で到底信用するに足りるものではない。

第五  結論

以上において認定した事実によれば、昭和五五年八月一三日福岡県筑紫野市大字柚須原四〇七番地一〇五所在の三群山山中の杉林の中で発見された身元不明の死体はAであり、同人は何者かによって殺害され右遺棄場所に遺棄されたものであることが認められる。右の身元不明死体は、その氏名はもとより、殺害された日時、場所、犯人等が全く知られていないいわゆる迷宮入りとなっている状態であったところ、被告人が他からの情報に基づくことなく、自らAの死体の遺棄場所を捜査官に開示した結果、それがAの死体であることが判明したもので、このことは被告人がAの死体を遺棄した自らの経験を述べたものにほかならないところ、Aの死体が何者かによって遺棄されるのを被告人が目撃した事実が全く認められない本件では、被告人は、殺害されたAの死体を右場所に遺棄したか、さもなければ、Aを殺害してその死体を右場所に遺棄したかいずれかでなければ、Aの死体の遺棄場所を知り得ないのである。ところで、Aがホテルで死亡していたのを発見し、その死体を遺棄したとする被告人の供述は、単なる弁解のためのもので、信用性に乏しく、被告人自身この供述をすぐに徹回している。そこで、被告人がAを殺害し、その死体を右遺棄場所に遺棄したとの供述のみが、被告人がAの死体遺棄場所を知っていた事実と符合し、それ以外の供述は、全くこれに矛盾することになる。さらに、このような供述のうち、死体遺棄場所付近の小川でAを殺害したとする自白は、客観的事実と矛盾し到底採用することのできないもので、右ホテルでAを殺害し、その死体を右遺棄場所に遺棄したとの自白のみが客観的事実と符合する。しかも、被告人にA殺害の動機となりうる状況が存在したこと、被告人が昭和五五年七月二四、二五日の両日福岡市に所在し、同二五日には、レンタカーを借りていることや、博多城山ホテル四一四号室に所在し、同室のベッドのマットにまで血液が付着する異常な状況が発生していたこと、A失踪直後から、被告人はAが肌身離さず所持していた同人の実印、印鑑登録証、銀行印、定期預金通帳並びに同人が代表取締役をしている会社の社印、小切手帳を所持し、また多額の現金を支出していること、右印鑑類等を用いて、判示第二ないし第九記載のとおり、Aの全財産ともいえる財産の処分を行ない、これらによって得た金員等を自己のために費消していること、被告人は関係者にAの失踪の原因について虚偽を言っていることなど、被告人とA殺害を結び付ける多数の情況証拠が認められ、右自白はこれらの情況証拠によって裏付けられている点でも信用性の高いものと認められる。

これに対し、被告人及び弁護人の主張は、いずれも根拠に乏しく到底採用することのできないものである。

以上のとおりであって、判示第一の事実は証明十分であり、これに対する疑問はすべて排除され、合理的な疑いを入れる余地のないものであるから、被告人はA殺害の事実についても有罪というべきである。

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法一九九条に、判示第二及び第六の各所為はいずれも同法二四六条一項に、判示第三、第四の一ないし三、第五、第七、第八の一及び二並びに第九の各所為のうち、各有印私文書偽造の点は、いずれも同法一五九条一項に(判示第八の一及び二については更に同法六〇条)、各同行使の点はいずれも同法一六一条一項、一五九条一項に(判示第八の一及び二については更に同法六〇条)、判示第三、第五、第七、第八の一及び第九の各所為のうち各公正証書原本不実記載の点はいずれも同法一五七条一項、罰金等臨時措置法三条一項一号に(判示第五及び第八の一については更に刑法六〇条)、各同行使の点はいずれも刑法一五八条一項、一五七条一項、罰金等臨時措置法三条一項一号に(判示第五及び第八の一については更に刑法六〇条)、判示第四の一ないし三の各所為のうち各詐欺の点はいずれも刑法二四六条二項に、それぞれ該当するところ、判示第四の三の偽造有印私文書の一括行使は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であり、判示第三、第五、第七、第八の一及び第九の各有印私文書偽造、各同行使、各公正証書原本不実記載、各同行使との間、判示第四の一ないし三の各有印私文書偽造、各同行使、各詐欺との間並びに判示第八の二の有印私文書偽造と同行使との間にはそれぞれ順次手段結果の関係があるので、同法五四条一項後段(第四の三の罪については更に同法五四条一項前段)、一〇条によりそれぞれ一罪として、判示第三、第五、第七、第八の一及び第九の各罪については刑及び犯情の最も重い各偽造有印私文書行使罪の刑で、判示第四の一ないし三の各罪については最も重い各詐欺罪の刑(ただし、短期は偽造有印私文書行使罪の刑のそれによる。)で、判示第八の二の罪については犯情の重い偽造有印私文書行使罪の刑でそれぞれ処断することとし、判示第一の罪については所定刑中有期懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により最も重い判示第一の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役二〇年に処し、同法二一条により未決勾留日数中六〇〇日を右刑に算入し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。

(量刑の理由)

本件は、被告人が判示のような経緯から、資産家であった被害者Aを殺害し、その死体を隠蔽したうえ、その後四年間の長きにわたり、同人の印鑑類及び預金証書等を用いてその全財産の乗っ取りともいえるような財産処分行為を重ねたという事案である。

まず、殺人についてみると、その原因は、被告人振出の小切手が被害者との違約により不渡りとなったことにあるといえるが、これをもって被害者に生命までも奪われねばならないほどの落ち度があったということができないのはもとより、そもそも被告人は被害者が人間関係、殊に金銭が絡む関係では極めて自己中心的であることを十分承知のうえ、従前からも実質に乏しかった自己の事業経営を二の次にし、同人の使い走りのようなことまでしてその歓心を買い、唯一の側近者としてその資産の運営に参画しようと画策していたことからすると、被害者との金銭的なトラブルや被告人の事業の行き詰まりは、当然予想できた事態とさえいえるのであって、犯行に至る経緯において特段酌量すべき点は見出し難い。また、本件は、財産乗っ取りを目的とした計画的犯行とまでは断じ得ないものの、その背景をなすのは被告人と被害者との間で犯行前に生じた金銭的、感情的対立であり、被告人はこれを一挙に解決すべく一方的に敢行し、被害者の財産をほしいままにしたというものであって、単なる偶発的犯行とはいえず、その犯情は誠に悪質である。また、その態様は、被害者の背後から、硬固な凶器を用いてその後頭部に激烈な攻撃を加えて殺害し、さらに、死体の陰茎を切り取ったうえ全裸のまま山中に遺棄したという甚だ残忍かつ冷酷なものである。しかも、犯行後、被告人は、何ら罪の意識にさいなまれることなく、被害者の行方を心配し被告人と被害者の関係を不審に思う周囲の者を巧みに騙したうえで、被害者を殺害した後に入手したと思われる同人の印鑑類や預金通帳並びに同人が経営している会社の社印、小切手帳等を使用して、被害者からの権限授与を意味する委任状や被害者の財産を実質的に被告人に移転することを内容とする契約書等を次々と偽造して被害者の資産を運用又は処分し、その手段方法も、例えば、預金の払戻しを銀行から拒否されるや虚偽の債務名義を作出したうえで、裁判所の差押命令を得て預金を差し押えたり、替え玉を使っての被害者の住民登録や印鑑登録、、保証書を用いての登記移転を敢行するなど、法律の知識の悪用から公権力の不正利用まで、ありとあらゆる手段を講じて判示第二ないし第九の犯行を含む財産犯等を累行し、被害者の事業を乗っ取ったばかりか、その個人的な銀行預金の引下ろしから、生活の本拠であったAの自宅の土地建物の売却に至るまで、文字どおり被害者の全財産をほしいままにしている。

次に、殺人以外の各犯行についてみると、右の情状は、同時に、これらの各犯行についてもいえるのであるが、さらに、詐欺罪の関係では、A以外の被害者らから騙取した現金、小切手、預金債権に代物弁済名下に領得した土地、建物の価格を加えると、被害総額は一億円を優に越えており、しかも、これらの被害者らに対しては全く被害弁償がなされていない。

このように、本件は、非情なまでの冷血さをもって行なわれた誠に大胆な犯行であり、自己の飽くなき財産欲を満足させるために手段を選ばない悪質極まりない犯行であるというべきである。

一方、本件犯行の犠牲となった被害者Aは、戦後一代で財をなした資産家で、妻との離婚後は仕事上も私生活上も被告人をほとんど唯一の話相手としていたのに、被告人の手によって突如故なく生命を奪われた無念さは察するにあまりあるところである。被告人は、捜査段階の一時期を除いては、事実を糊塗して本件殺人の犯行を頑なに否定しており、そこには一片の悔悟、反省もうかがわれず、また、被害者Aの遺族に対しては何ら慰謝の措置が講じられていないのであって、遺族らが被告人に対し厳罰を望むのは、まことにもって当然であるというべきである。

以上のとおりであって、本件各犯行の動機・原因、犯行の方法、結果及びその社会的影響その他被告人の犯行後の態度等を考慮すると、被告人の刑責は極めて重大であって、厳罰をもって臨まねばならないところ、他面、A殺害の場所、方法、死体遺棄の経過等に照らすと、本件殺人は周到な計画に基づくものとはいえないこと、したがってまた、Aの財産処分を殺害前から目論んでいたことまでは認定し難いこと、被告人にはこれまで特筆すべきほどの前科はないこと等被告人にとって有利に斟酌しうる情状も認められるので、これら一切の諸事情を総合考慮して、主文のとおり、その刑を量定した。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官新矢悦二 裁判官山田利夫及び同洞file_3.jpg敏夫は転任につき署名押印することができない。裁判長裁判官新矢悦二)

別紙

別表

騙取年月日

(昭和年・月・日ころ)

騙取場所(東京都)

騙取金員等

五六・二・一九

渋谷区<住所省略>宇田川町ビル内の被告人の事務所

現金七〇〇万円

五六・二・二三

同区<住所省略>所在のJ方居宅

現金五〇〇万円

五六・四・一

大田区<住所省略>所在のAの元居宅

額面七〇〇万円の小切手二通

五六・四・一〇

右同所

額面七〇〇万円の小切手一通及び現金二〇〇万円

五八・八・二五

右同所

現金二〇〇万円

五八・一一・七

新宿区市ケ谷河田町一〇番地東京女子医科大学内株式会社三和銀行四谷支店東京女子医大出張所前

現金五〇万円

五九・八・四

前記Aの元居宅

現金二〇〇万円

五九・一二・一八

渋谷区代々木二丁目三番一号ホテルサンルート内「カフェレストランキャリオカ」

現金一五〇万円

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